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文久2年10月11日(1862.12.2)
【京】土佐藩主、別勅使に先立ち、藩兵500余名を率いて
江戸に向って京都を出立
【江】/容保、勅使待遇改善を建議するが老中板倉に反論される。

■勅使優待問題
【江】文久2年10月11日京都守護職として赴任予定の会津藩主松平容保は、勅使待遇改善を幕議で建議しましたが、老中板倉勝静に強く反対されました

容保は閏8月に守護職を命ぜられましたが(こちら)、すぐには上洛せず、まず家臣の田中土佐野村左兵衛外島機兵衛、広沢富次郎(安任)、柴太一郎らを京都に派遣し、下準備をさせていました。(その結果、破約攘夷の必要性を感じて三港外閉鎖の建言を行いましたが(こちら)、幕閣からよい反応は得られませんでした(こちら)。そうしたところ、10月5日、第2の勅使(攘夷督促)として東下する予定の三条実美が、野村・外島を呼び出し、幕府の勅使待遇に関する礼の改正の周旋をするよう伝えました(こちら)

実美が伝えたとされる言葉の大意は以下のとおりです。
<(第1の)勅使大原重徳の東下の際の待遇が礼式に欠け、皇室に対する尊敬を欠く者が少なくなかった。朝廷も不快で天下有志の者も憤慨し、幕府を誹謗する者も多い。予の東下字にも同じことが繰り返されれば勅を伝えずに帰るだけである。予は深く守護職にたのむところがあるので、上洛を急がずに江戸に留まって勅使待遇の改善を周旋してくれれば幸甚である。予も守護職の上洛に先立ち、(上洛遅延の上奏や朝廷に関する事々を)周旋してもよい>

(『七年史』より意訳)

急遽江戸に下った家臣から三条実美の依頼を伝えられた容保は、朝旨を尊重して勅使の待遇を改善して尊王の実を挙げることを幕府に建議しました。

●老中板倉勝静の反応
板倉は大反対し、
<勅使の待遇は東照宮以来の定例があってみだりに変更すべきではない。最近、朝廷では「浮浪の輩」の申立を軽々しく採用して種々命令されるが、際限というものがある。殊に朝廷の沙汰は何事によらず伝奏から所司代に通達するべきなのに、藩士に直々に書面を下付するとは、朝廷の処置も筋違いだが、藩士でありながらこれを受け取った者も不都合である。また肥後守殿がこの不都合を不都合とも思わずそのまま御用部屋に差し出されるとはどういう心得なのか理解しがたい>
と論難したそうです。容保
<その筋を経ずに書面を下付されたのは幕府への注意によって待遇を改善することになれば、朝幕双方に角が立って宜しくないとの意図があり、内々の処置としたものであろう。であれば、朝廷は幕府に対して、実は「御懇篤の筋なるべし」>
と説明したそうですが、板倉は聞きとめず、前議を繰り返したそうです。

●後見職一橋慶喜の反応
慶喜は、勅使優待は可だが京都の要請によって改正することは幕府の対面上よくないという意見でした。

●総裁職松平春嶽の反応
春嶽は、板倉の「朝廷を遵奉するに意なき」に驚いて意見を述べようと思ったそうです。しかし、一橋慶喜も書面には異議を抱いている様子なので、この場で理非を論じることは「意外の珍事」を引き起こしかねないと自重したそうです。

■第二の勅使(攘夷別勅使)東下
【京】文久2年10月11日、土佐藩主山内豊範は、攘夷の別勅使三条実美・姉小路公知に先立ち、藩兵500余名を率いて江戸に向って京都を出立しました

同日、議奏野宮定功は長州藩家老益田弾正に対して、長門守(在府の世子毛利定広)が勅旨貫徹及び親兵設置を周旋するよう伝えました。また、徳島藩主蜂須賀斉裕(阿波守)にも同様の沙汰が降りたそうです。

参考:『続再夢紀事』一、『七年史』、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.31)
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