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文久2年10月5日(1862.11.26)
【京】勅使待遇問題(1)三条実美、会津藩士に待遇改正周旋を依頼。
【京】土佐藩主山内豊範参内。天盃を賜う
【江】一橋慶喜に上京中止の台命

■勅使優待問題
【京】文久2年10月5日、急進派公卿の三条実美は、会津藩士野村左兵衛・外島機兵衛に勅使待遇改正の周旋を依頼しました。


会津藩主松平容保は閏8月に守護職を命ぜられましたが(★)、すぐには上洛せず、まず家臣の田中土佐野村左兵衛外島機兵衛、広沢富次郎(安任)、柴太一郎らを京都に派遣し、下準備をさせていました。(その結果、破約攘夷の必要性を感じて三港外閉鎖の建言を行いましたが(★)、幕閣からよい反応は得られませんでした(★)

そうしたところ、『七年史』によれば、10月5日、破約攘夷督促の別勅使として東下する予定の公卿三条実美が、野村・外島を呼び出し、幕府の勅使待遇に関する礼の改正の周旋をするよう伝えたそうです。実美が伝えたとされる言葉の大意は以下のとおり。

<(第1の)勅使大原の東下の際の待遇が礼式に欠け、皇室に対する尊敬を欠く者が少なくなかった。朝廷も不快で天下有志の者も憤慨し、幕府を誹謗する者も多い。予の東下時にも同じことが繰り返されれば勅を伝えずに帰るだけである。予は深く守護職にたのむところがあるので、上洛を急がずに江戸に留まって勅使待遇の改善を周旋してくれれば幸甚である。予も守護職の上洛に先立ち、(上洛遅延の上奏や朝廷に関する事々を)周旋してもよい>(『七年史』より意訳)

一方、『京都守護職始末』によれば、柴太一郎が、松阪の富豪で三条家に出入りしている世古格太郎の紹介を得て、野村とともに実美に謁見したときに依頼されたとしています。柴は江戸出発前に、出羽上山藩の金子与三郎(清河八郎の友人です!)から、伊勢の山田大路親彦に会うよう勧められたそうですが、その山田大路から世古を紹介されたのだそうです。実美の言葉は『七年史』と似通っています。

野村・柴は、実美の依頼を容保に伝えるために前後して江戸に向いました・・・。

<ヒロ>
勅使待遇周旋問題朝廷・会津双方のルール無視
さて、この勅使待遇改善の一件は、開国か破約攘夷かで揺れる幕議をさらに紛糾させる結果となります。その理由の一つが朝廷・会津双方のルール違反ともいえる行為でした。幕府への沙汰は、本来、伝奏から所司代を通して伝達されることになっていました。ですから、このように、三条が会津藩士(陪臣)に直接依頼するということは、幕府のルールを無視するものになるのです。時代背景やその重要性は違いますが、安政の大獄を引き起こした戊午の密勅が、やはり伝奏を通さず直接に水戸藩士に降下され、そのことが大問題になったことも思い起こしてください。今回の場合は、会津藩士に沙汰書が渡されたのではないようですが、容保の幕閣へ提出した書簡(『続再夢紀事』)は改善項目は11か条に渡っており、実美もかなり具体的で詳細な要求を伝えていたようです。

野村・外島(あるいは柴)も本来なら伝奏を通すべきだということを知らないはずはありません。幕府の重職である京都守護職の家臣としては、周旋の約束をしつつ、ルールに則り、伝奏から所司代に公式の沙汰を下付することが筋だろうと思うのですが、野村らはそれをせず、(所司代にも三条から依頼があったことを連絡せず?)、東帰して容保に依頼を伝えました。いくつかのオプションを検討した上で幕府のルール(と所司代)をあえて無視することにしたのか、軽い気持ちだったのか、あるいは在京の会津藩士だけでは意思決定ができないのでとりあえず容保に伝えたのか・・・その辺を伝える資料はないようで、不明です(管理人が知らないだけ??)。

老中板倉勝静・所司代牧野忠恭(たぶん)の不快感
この朝廷・会津藩双方の「ルール軽視(とみられる行為)」は、そうでなくても容保の政治的動きに好意的でなさげな(こちら)首席老中板倉勝静の批判するところとなり、勅使優待問題をこじらせることになります・・・(こちら)。京都に赴任してから、政治化せずにはならなくなったた守護職容保と江戸の幕閣の関係は悪化するのですが(家近良樹氏は幕閣の会津藩への「敵視」とまで表現)、そのへんの目が早くも感じられる気がします。もちろん、頭ごなしに朝廷の依頼が伝達された所司代(新任の牧野忠恭)のメンツもつぶれるわけで、面白かろうはずがないと推測します。容保上京当初、所司代と守護職の仲は、職掌をめぐるあつれきが起るのですが、この事件が尾を引いているのかもしれません。牧野が所司代に任命された背景には容保の強い要望があり(こちら)、本来、良好な関係が構築できたはずだと思うのですが・・・。

サイトの「はじめに」にも書いたのですが、京都で政治化した守護職と江戸の幕閣との齟齬は、政局にかなり大きな影響を与えたのではないかと思っています。メインテーマの一つですので、時間をかけて追いかけていきたいと思います。

それにしても、『京都守護職始末』・『七年史』といった会津側資料には、在京藩士の(幕閣からみれば)軽率な行為が惹起した紛糾については触れられていません。(毎度毎度思うことですが、手軽に入手できる旧藩士による通史だけを読んで会津藩を知ったつもりになるのは、とても危険デス^^;)

関連■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「勅使優待問題「容保VS幕閣・春嶽」■守護職日誌文久2  ■「守護職」「勅使待遇改正に尽力」

■親兵設置問題
【京】文久2年10月5日、薩長土有志が連署して親兵設置を建議しました。


去る10月1日に土佐藩・長州藩の急進派が親兵設置を協議し(こちら)、翌2日には薩摩藩急進派も親兵設置提議に同意していました(こちら)

勅使下向により破約攘夷となればいつ畿内に外国の軍隊が押し寄せるかわからないので、往古のように親兵設置を幕府に命じ、諸藩から人材を募り、朝廷で選ぶべきである・・・建議はこのような趣旨でした

<ヒロ>
親兵は、朝廷に兵権を返す一歩ともなりますが、親兵を出す藩にとっては、有事に朝廷を支配できることにもなります。親兵設置は攘夷督促とともに別勅使が伝えることになりますが、親兵問題には幕府は反対の意思を示すことになります。

関連■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「親兵設置問題

■土佐藩
【京】文久2年10月5日(1863年11月26日)、土佐藩主山内豊範が参内し、天盃を授かりました。

■慶喜上京延期問題
【江】文久2年10月5日(1863年11月26日)、一橋慶喜に上京中止の台命が下りました。

<上京延期問題 おさらい>
慶喜の上京は9月16日に決定しましたが(こちら)、在京急進派の画策により、同月26日に慶喜の上京を11月まで延期せよとの沙汰が下され(こちら)、10月1日着の京便(所司代の知らせ)で幕府に伝達されました(こちら)。しかし、同月3日の京便で、準備が既に整っているので、勅使の東下に拘らず出立するようにとの沙汰が伝えられ、幕府は慶喜の出立期限を9日と定めました(こちら)。ところが、夜の京便で、所司代代行酒井忠績が参内したとき、天皇の出座がなかったこと、その理由は病気だともいうが、慶喜が上京しても拝謁を命じまいとの意見が朝廷にあるためにわざと出座しなかったのかもしれないことが伝えられました。10月4日、それを聞いた慶喜は非常に当惑し、万一拝謁を命じられなければ開国意見を上奏することが不可能であり、上京しても意味がない、出立は再考したいと述べていました。

関連: ■テーマ別文久2「慶喜の上京延期問題
<参考>『続再夢紀事』一、『七年史』、『京都守護職始末』、『徳川慶喜公伝』(2003.11.26)

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