12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

前へ 次へ

文久3年10月28日(1863.12.8):
【京】孝明天皇「8・18以来、意のままにならないので三条実美に伝えよ」
「天下のことを三条実美に委任したい」と言ったという
風説を否定する宸翰を中川宮(尹宮)へ
【長】周布派の政敵、坪井九右衛門に死罪が言い渡される

■「風説」否定の宸翰
【京】文久3年10月28日、孝明天皇は<政変以来、意のままにならないので三条実美に伝えよと女官に言った><天下のことを三条実美に委任したいと考えている>という風説を否定する宸翰を中川宮等へ下しました
実美(=三条実美)の儀に付、風説の趣承り、扨々(さてさて)困り入り候義に候。併(しか)し有間敷事、暴論忌禁候儀は各(おのおの)委細承知の事、予存分通りに候得は今少し厳科に行たき程の存念、然るに左様の者(=暴論家=三条)へ密事申し遣し候義は決して之無く、左候得は女房向を以て文通抔(など)は尚更(なおさら)虚妄相違無く候。尤(もっと)も女房向へも申し含み置き候間、決して右様の者は之無く候。当節人気騒ヶ敷(さわがしく)、虚談怏々、且(かつ)脱走の輩(=三条実美ら)に於ても種々姦計を運び候義も計り難く、何卒(なにとぞ)決して採らず候得は、右風説は毛頭之無き儀、全く姦邪の所為、爾来(じらい)右様の輩之有るに於ては予の趣意に違い候間、其辺官武の諸臣一同相心得候様、急度(きっと)申し渡し候事旁々(かたがた)心得違い之無き様の事。

(出所:『続再夢紀事』ニp209-210より。仮書き下し&()内は管理人。句読点は任意。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

「風説」について
薩摩藩士小松帯刀が11月1日に前越前藩主(前総裁職)松平春嶽に語ったところによると、先日来、長州のあたりで、孝明天皇が庭を散策中に女房の袖を捕えて「去月十八日以来一として朕の心の儘になりし事なし故に日夜涕泣し居るなり。此旨三條(=長州に脱走した三条実美)へ申し遣すべし」と命じたので、女房が密かに三條にそのことを伝えた・・とか、天下の事を三条に委任した・・・とかいう風説が立っていたそうです。これが中川宮・近衛前関白の耳に入り、驚いた両名が内々に天皇に奏上したところ、天皇は激怒し、決してそのようなことはない事を官武の諸臣一同に必ず申し渡すようにと宸翰を下したのだそうです。

翌日、近衛忠煕前関白により、宸翰の写しは島津久光に遣わされます(こちら)

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.11)

■長州内訌
【長】文久3年10月28日(1863.12.8)、羽島に流罪になっていた周布派の政敵、坪井九右衛門が死罪を言い渡されました。

坪井の妻や子の竹槌夫婦が羽島訪問したことを「結党強訴」の罪に問われたそうです。長男は遠島となり、孫は士分剥奪・城下追放されました。←「正義派」を名乗る政敵から「俗論派」といわれ、悪役にされてしまった坪井ですが・・・いつか調べて整理してみたいです。

坪井派(椋無派)VS周布派(村田派)の政争については「長州藩かけあし事件簿」をどうぞ。

関連:■テーマ別文久3「長州内訌」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史 四上』p544(2004.12.11)

前へ 次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ