12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■「風説」否定の宸翰 【京】文久3年10月28日、孝明天皇は<政変以来、意のままにならないので三条実美に伝えよと女官に言った><天下のことを三条実美に委任したいと考えている>という風説を否定する宸翰を中川宮等へ下しました。
「風説」について 薩摩藩士小松帯刀が11月1日に前越前藩主(前総裁職)松平春嶽に語ったところによると、先日来、長州のあたりで、孝明天皇が庭を散策中に女房の袖を捕えて「去月十八日以来一として朕の心の儘になりし事なし故に日夜涕泣し居るなり。此旨三條(=長州に脱走した三条実美)へ申し遣すべし」と命じたので、女房が密かに三條にそのことを伝えた・・とか、天下の事を三条に委任した・・・とかいう風説が立っていたそうです。これが中川宮・近衛前関白の耳に入り、驚いた両名が内々に天皇に奏上したところ、天皇は激怒し、決してそのようなことはない事を官武の諸臣一同に必ず申し渡すようにと宸翰を下したのだそうです。 翌日、近衛忠煕前関白により、宸翰の写しは島津久光に遣わされます(こちら)。 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.11) ■長州内訌 【長】文久3年10月28日(1863.12.8)、羽島に流罪になっていた周布派の政敵、坪井九右衛門が死罪を言い渡されました。 坪井の妻や子の竹槌夫婦が羽島訪問したことを「結党強訴」の罪に問われたそうです。長男は遠島となり、孫は士分剥奪・城下追放されました。←「正義派」を名乗る政敵から「俗論派」といわれ、悪役にされてしまった坪井ですが・・・いつか調べて整理してみたいです。 坪井派(椋無派)VS周布派(村田派)の政争については「長州藩かけあし事件簿」をどうぞ。 関連:■テーマ別文久3「長州内訌」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p544(2004.12.11) |
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