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文久3年10月27日(1863年12月7日) 
【京】守護職松平容保批判の張り紙
【長】藩主毛利敬親、家老井原主計に上京・
嘆願(奉勅始末)提出を言い含める

【京】文久3年10月27日、京都守護職松平容保批判の張り紙が町屋に張り出されました。

その大意は
<従来頑迷はもちろん、重職につきながら正義の家臣が一人もいず、先日薩摩藩の愚弄に甘んじ、皇国の大基を覆し、徳川氏の危殆を醸し、かつ越前の松平春嶽は朝敵で一歩も神京へふみこませるべきではない者であるのに、御沙汰を曲げ、上京させるよう周旋し、大和浪士鎮静時も「○刈」を名目として町家を困却させたことは、井伊・安藤と同じであり、御所の守護と称して自身を囲った(施薬院に宿陣していることを指す)ことなど、の大義を顧みず、大変不届きであるので、尊攘の有志で申し合わせ、即刻天誅を加えるべきところ、東照宮の血縁の家であり、頑迷なことはかねて承知のことでもあり、格別の理由で赦すのである。以後、改心し、実意をもって皇国のため粉骨砕身の御奉公をするように>(口語訳・要約by管理人)

<ヒロ>
同月20日の張り紙と違い、朝廷だけでなく徳川も尊重しているところをみると、反幕勢力のやったことではないようです。開国派の春嶽を朝敵とし、また井伊・安藤を嫌っているところは・・・もしかして水戸系浪士のしわざかも???(水戸藩本国寺党と会津藩が微妙な関係だったのではと思っているわたし・・・)

<参考>『七年史』ニ(2001.12.7)

■長州家老の上京・嘆願
【長】文久3年10月27日、長州藩主毛利敬親は、家老井原主計に上京・嘆願(奉勅始末提出)を言い含めました。

これより先、家老根来上総は敬親の嘆願書を携えて9月13日に大坂に到着しましたが(こちら)、朝廷は根来の上京を許さず、京都留守居役乃美織江に嘆願の趣旨を聴取し、政変当日の毛利元純らの挙動を取り調べるよう命じました(こちら)。藩士の中には押して上京すべきとの意見もありましたが、朝命に従うことにし、根来は嘆願書を乃美に託しました(こちら)。乃美は、同月23日、勧修寺家を通して嘆願書を提出しました。

その一方で、長州藩は9月16日に世子の上京を決定し(こちら)、10月1日には「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達し(こちら)、同月10日には、藩士に世子随従を予め命じ、決意を固めさせていました(こちら)。真木和泉が諸卿に率兵上京三策を献ずる(こちら)など、六卿の周辺では進発論が高まり、藩庁は彼らが暴発せぬよう六卿を三田尻から山口に移し、慰撫に努めていました(こちら)

このような中、根来が所期の目的を果たせぬままに23日に山口に帰り着きました。そこで、長州藩では、世子上京に先立ち、藩主父子の赤誠を朝廷に達すため、さらに家老井原主計に「奉勅始末」と毛利元純等挙動取調書とを授けて上京させることにしたのです。

関連:■テーマ別文久3 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史 四上』p558(2004.12.16)

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