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いろはに幕末長州藩


【かけあし事件簿1 国政進出前(〜万延1)】

前史 天保年間 弘化・嘉永年間(1844-1853) 安政年間(1854-1859) 万延1(1860) 

国政進出後文久1(1861) 文久2(1862) 文久3(1863) 元治1(1864) 慶応1(1865) 慶応2(1866) 慶応3(1867))


前史
■長州藩
毛利家は戦国時代には中国地方のほとんどを支配していた。しかし、関ヶ原の戦いで豊臣方についたため、領地を周防・長門の2カ国36万石に削減されて居城は萩に移すよう命じられた。徳川の幕藩体制下、外様藩である長州藩は国政から疎外され、以後、藩政に専念する時期が続いた。関ヶ原の戦いで領土を大幅に削減された長州藩は財政難に陥り、増収をはかるために宝暦検地を行った。しかし、その増収分4万石余は藩の会計に入れず、新たに設置した撫育局に回し(幕府にはナイショのいわば裏金ですネ)、殖産興業を行った。文政12年(1829)には産物会所を設置し、村役人(豪農層)に売買の独占権を与えて特産物(「防長の四白(米・紙・塩・蝋)」)の生産・流通を統制した。

天保
年間


略年譜
■天保の大一揆
天保2年(1831)、藩全域に広がる大一揆が起った。一揆参加者は年貢の軽減だけでなく、生産物流通の自由化や村役人交替・公選という村政改革も要求した。藩は、農民の要求の一部はのみ、年貢の軽減、産物会所の廃止などを実施したが、中心者を厳罰に処した。一方、藩の赤字も深刻で、天保3年(1832)には藩の借金は銀8万貫に達した。

■13代藩主敬親就封
天保8年(1837)、13代藩主に毛利敬親が就任した。この年は2月に大坂で大塩平八郎の乱が起こり、3月には三田尻などで一揆が続発した。藩債はさらに増え、8万5千貫になった。ちなみに藩の歳入は3千貫である。

■天保の藩政改革(村田清風の改革)
翌天保9年(1838)に入国した敬親は、村田清風(56歳)を当役に抜擢して、藩政改革にあたらせた。村田は徹底した倹約励行・専売制の緩和・下関越荷方の拡充(藩の増収)などを行った。また、アヘン戦争で清が敗北したことによる危機感から海防強化も進め、天保14年(1843)には羽賀台の大操練を実施した。しかし、同年、藩士の借財整理のために発令した「37ヵ年賦皆済仕法」(実質上の借金踏み倒し^^;)は債権者である商人の猛烈な反発を買い、翌弘化元年(1844)、村田は失脚した。代って実権を握ったのが祐筆に就いた坪井九右衛門である。【関連:「開国開城-天保年間:開国前夜(1

弘化・
嘉永
年間


略年譜
坪井派の改革と蹉跌
弘化元年(1844)、坪井は37ヵ年賦皆済仕法を廃止し、藩士にも商人にも配慮した公内借捌仕法を実施した。しかし、財源確保のための借金で藩債は再び増加し、弘化3年(1846)、反対派に責任を追及されて引退、翌4年(1847)、禁錮に処せられた。当役には浦靱負が就いた。坪井政権は倒れたが、祐筆(政務役とも)は坪井派椋梨藤太(47歳)が引継ぎ、椋梨の添役には村田派周布政之助(28歳)が登用された。いわば呉越同舟の「連立内閣」(古川薫氏)である。

■黒船来航・大森出兵と相州警備
嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航し、開国を要求した。長州藩は幕命により大森に出兵し、さらに相州警備を任された。9月、椋梨が祐筆を罷免され、代って周布が昇格した。椋梨の罷免は大森出兵の恩賞を藩費で出すという藩主敬親の案に反対したためだという。椋梨は萩に帰され、藩校明倫館頭人に就任した。【関連:「開国開城-開国勧告とペリー来航予告 ペリー来航」】(「余話」「槍三本」)
安政
年間


略年譜
安政の改革(周布派坪井・椋梨派の対立)
幕府に命じられた相州警備の費用は長州藩の財政を圧迫した。椋梨の更迭後、実権を握った周布派は、安政元年(1854)、節倹令・借金返還延期令を実施しようとした。これは村田清風の天保改革を引き継ぐもので、天保改革時と同様の反発・不満を招いた。安政2年(1855)5月、藩は隠居していた村田(73歳)を再起用しようとしたが、起用の3日後に村田が急死した。8月、藩政から周布派が後退し、坪井・椋梨派が復帰した。周布は逼塞を命じられた。坪井らは、藩の収入を増加させるため、梅田雲浜の提案を受けて、長州-上方の物産交易に乗り出したが、豪農層のサボタージュで失敗に終った。安政5年(1858)6月、坪井・椋梨派が後退し、再び周布派が改革を進めることになった。ただし、椋梨は明倫館頭人に更迭されたが坪井は相談役に留まった。改革も、坪井・椋梨派の始めた物産交易を継承し、それを修正するものであった。

吉田松陰の密航と「松下村塾」誕生
この間、安政元年(1854)1月にペリーが再来航し、3月3日、日米和親条約が調印された。21日、吉田松陰(25歳)が弟子の金子重輔とともに米艦に密航しようとした。西洋事情を知りたいための行動だったが、ペリーはこれを拒絶し、自訴した松陰は江戸の獄、ついで萩の野山獄に収監された。その間、「一君万民論」(天皇の前の平等論)を起草した。実家の杉家預かりとなった松陰は、安政4年(1858)11月、「松下村塾」という私塾を開いた。塾生には高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠などがいる。【関連:「開国開城-日米和親条約と安政の幕政改革」】(余話:「アメリカへ!吉田松陰」)

条約勅許問題と藩是三大綱
藩政がまだ坪井・椋梨派にあった安政5年(1859)前半、中央政局では、日米通商条約勅許&将軍後継問題がピークに達していた。4月、彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、5月には紀州家慶福(家茂)が将軍後継に指名された。長州藩は5月に藩論を叡慮(天皇の考え)通りの攘夷と決し、「朝廷に忠節・幕府へ信義・祖先に孝道」という藩是三大綱を発表した。ところが、周布派が政権に返り咲いた6月、幕府は勅許を得ずに条約に調印した。7月、違勅調印を批判した【関連:「開国開城-将軍後継問題と条約勅許問題」】

安政の大獄と松陰の処刑
幕府の違勅調印に激怒していた松陰は、安政5年11月、塾生17名と血盟して老中間部詮勝暗殺を計画し、藩庁に武器弾薬供与を願い出た。驚いた周布は、12月、松陰を「学術不純」を理由に野山獄に収容した(松下村塾は事実上閉鎖となった)。絶望の中、松陰は「草莽崛起」論を著した。翌安政6年6月、幕命により江戸に檻送された松陰は老中暗殺計画を積極的に自白し、10月、刑死となった。【関連:「開国開城-戊午の密勅と安政の大獄」】(「余話」「水・越・薩・尾挙兵の噂と老中暗殺計画」、「覚書」「松陰と雅楽」)
万延1
(1860
)

略年譜
水長の盟約(「成破の盟約」)
万延元年(1860)3月、安政の大獄で厳しい処分を受けた水戸藩尊攘激派は薩摩藩尊攘激派とともに大老井伊直弼の暗殺を決行した(桜田門外の変)。実行者は江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していたが、薩摩藩の自重で連携は実現しなかった。7月、今度は、桂小五郎が西丸帯刀ら水戸藩士数名と、長州藩船丙辰丸上で、幕閣改造を目的とする水長の盟約(「成破の盟約」)を結んだ。それぞれの藩情から、藩同士の同盟とはならなかったが、盟約に基づく老中安藤信正襲撃計画(水戸が安藤を斬り(=「破」)、その後は長州が幕政改革を断行する(=「成」)という計画)は着々と進められた。【詳細:「開国開城-水長盟約」】
(2004.1.23、1.25)

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主要参考文献:(リンク先も参照して下さい)
『修訂防長回天史』・『山口県の歴史』・『長州藩と明治維新』・『幕末の長州』・『木戸孝允』
『幕末長州藩の攘夷戦争』・『高杉晋作』・『徳川慶喜公伝』・『明治維新人物辞典』・『松下村塾』
『日本歴史大系11幕藩体制の展開と動揺下』・『日本歴史大系12開国と幕末政治』
『幕末長州の舞台裏 椋梨藤太の覚書』・『長州戦争』

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