12月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月2日(1863年12月12日)

【坂】将軍後見職一橋慶喜、着坂
【伏見】伊達宗城、伏見着。薩摩藩高崎左太郎(正風)、宗城訪問。政変の顛末を語る

■慶喜再上洛
【坂】文久3年11月2日、将軍後見職一橋慶喜が着坂しました。

前越前藩主(前政事総裁職)松平春嶽は、早速書状を認め、藩士酒井十之丞を大坂に遣わしました。

<ヒロ>
『徳川慶喜公伝』2では兵庫着港が同月12日、上陸が同20日とされているのですが、着坂してからまた兵庫にいったのでしょうか???

参考:『続再夢紀事』ニp212(2004.12.14)
関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年:「将軍・後見職の再上洛」「参与会議へ」■徳川慶喜日誌文久3

■伊達宗城再上京
【伏見】文久3年11月2日、前宇和島藩主伊達宗城が伏見に到着しました。

島津久光の使者・高崎左太郎(正風)が宗城を訪ねてきたので、政変の顛末を尋ねたところ、左太郎は次のように語りました
御行幸・御親征は、主上は(気が)お進みではなく、尹宮(=中川宮)も「不宣(よろしからず)」と思し召しだったが、「暴論諸卿(が叡慮を)遮而強奏、無理無法ニ」三条(=三条実美)始で取極め、二十六日に鳳輦を発せられると決まった。此度は、内侍所(ないしどころ・三種の神器のうち鏡が置かれる場所)にお入りになるとのことで、その後、禁闕は烏有(うゆう・何もないこと)とする策だった。表向きは、幕府が(攘夷を)奉勅せぬ故の御親征なので、「迅速関東ニ而奉勅」あるべしとの主意だが、「実情征莫府之密策」である。

八月十二日頃(ママ。実際は8月8日)、(朝廷から)尹宮へ内々の使者が訪れ、西国諸藩が不穏につき、鎮撫大将軍任命・下向を打診された。宮は「以之外御驚愕且御不審」に思われ、容易ならぬ儀なので熟考して御請申し上げる、と仰せ置かれ、内密に相模守に御沙汰をされた(注:8月日)。

佐太郎の考えをお尋ねになったので、<宮の尊虜はいかがですか>と伺うと、御断りを(天皇に)直に申し上げたい思し召しでした。佐太郎は<容易なららぬ「奸策」だと存じます。まずは御直に御断りになられますように>と言上して退出した。
尹宮が参内して「御断之儀」を直奏したところ、主上も「御当惑の御様子」で、(急進派公卿から)<宮が「此事被畏候ハヽ」(=西国鎮撫使を拝命すいれば)、先ず親征には及ばず、御断りになれば「御いやに」思召される行幸をされるように>と「強奏」されたのだと仰せられた。宮も頗る閉口して、それでは又熟考仕りますと言って退出された。
中川宮は佐太郎を召して、右の密談があった。
この上は如何すべきか。
憚りながら宮が(西国鎮撫を)御請になれば「長州へ御滞留」させおき、その間に行幸を行うという「奸」に相違ないので、御請けにならぬように
一策がある。親王が参りたいと申し上げれば(内命は)止むはずだ。
それは御役に立ちますまい。遷都の企みですから、親王も早速御聞届け・御下向となるでしょう。宮の御出都さえあればあとは「是非是非鳳輦を奉動候決策」です
(甚だ当惑して)尤もだ。この上は如何すべきか。
もはや(行幸が)二十六日と差し迫っており、御油断になれば姦計に陥られるでしょう。そのときは、如何思し召されても、「主上を奉擁居候得は御手出不相成大事去之時ニ御座候」(=主上を擁していれば、手出しはされず、大事にはならぬでしょう)。御決心にて御英断され、「只今迄謀之次第」を(天皇に)お直に申し上げ、御悔悟あらせれれば、御処置をあらせられたいと申し上げたところ、しばらく熟考して「御承知」になった。そこで「何分(薩摩の)藩士少ニ付会津と一致不仕候而ハ御處置行届兼候故」、会津を同意させた上で(と言い置き、すぐに退出した)
(左太郎は)会津へ参り、何某(朱書・秋月亭次郎)へ「段々之次第」を「密話」したが、彼方は「甚以不可解事」と密かに話し合っているので、不安に思っていたところ、(秋月は)御所向のことは「望洋・不分明」なので、只今まで打ち過ぎてきたが、右のごとくであれば「燃眉之大變」であり、委曲主人へ申し聞かせる、と申した。佐太郎は、そのように「緩々」いたす場合ではないと気色ばんだが、(秋月は)聊かも遅々といたすのではない、「君臣之手数故」、主人に申し聞かせるとは御答えしたが、(薩摩藩に)不同意というのでは決してなく、(容保も)早々に「御施」をされるだろうとのこと。何か手筈を相談する由。

宮を訪ね、(会津が賛同賛同したことを)言上したところ、(宮中で神事の)御祭中なので、元服前の姿では参内に支障があるゆえ、近衛様へ申し上げるようにとの御沙汰であった。

即時に(近衛家に)参殿し、密奏したところ、「尤之儀」だが「危き軽挙故先ツ見合」せるようにと、「御困り之御様子」で、色々論争したが、御納得にならなかった。御参内になられぬのなら、書面にて宮を召されるよう御奏聞願いたいと申し上げたが、それも御承知にならなかった。

そこで、宮に申し上げ、会津にも知らせ、宮の御参内・御直奏となった。(天皇が)「御聞啓」きになれば、早速(中川家の)諸大夫・武田相模守を通して連絡がある予定で、待っていたが、一向に御沙汰がなく、そのうち宮が御退散されるというので、「切歯失望」したが、なしようもなく「すこすこ御供」して帰殿。

早速、(宮の)御側に上がり、お話しをうかがったところ、主上も「尤之儀」とは「御聞啓」きになったものの、「何分奸党勢さかん故容易ニ軽率之事ハ不宣」との御沙汰があり、「尚考量」致せと仰せ出されたので、致し方なく、再考仕ります、と申し上げて退出してきたとのことだった。

左太郎も残念で堪らず、歯噛みしたが、それでは御賢考を、と申し上げて屋敷へ帰り、同志の者へ話して聞かせたところ(原文注:「御英断御処置」なので止むを得ず頭分へは詳しく話したとのこと)、大いに憤激し、もはや堪えがたい、これから転法輪殿(=三条実美)へ押しかけようと騒ぐので、種々なだめすかし、ようやく鎮静した。

それから、強情者を連れて酒棲へ参り、酒を飲ませていたところへ、会津藩の秋月がやってて、尹宮へ先刻、御宸筆が下り、急に「處置」すべしとの叡慮を仰せ出されたとの密話に及んだ。左太郎は、今朝は云々の御沙汰があり、左様仰せられたというのは甚だ覚束なく存じるが、(中川宮に)ら直に伺うので、皆々は帰って待っていろ、と言って、(宮邸に)参殿した。

(宮に)伺ったところ、御宸翰は下されたが、叡慮は、今夜決断・処置せよ、尤も宮も薩も関係は為にならぬので、因州・会津に取り計らわせよ、だったいう密話をされた。左太郎は、<恐れながら、その天意ではとても禍転じて福となすというお運びには至りません。やはり、万事、叡意を奉り、宮にて御指揮されたく、薩摩は後日如何様なる難渋に陥るとも、「此後ニ至他藩へ被仰付而(ママ)不相済」(=この後に及んで他藩へ仰せつけられては相済みません)。会津と手筈を整えてもおります故、そこのところは御案慮あらせられたく。もっとも、この儀は、近衛様二条様へ申し上げ、御一同が御決心されるようお願いし、陽明殿(=近衛家)がもし、過日の如く、お聞き入れにならねば、左太郎が、一命を擲って御諫め申し上げます、と申し上げた。(中川宮は)その覚悟なら決心致そうとの御意で、直ちに二条殿へは会津より秋月が罷り出た。陽明殿には左太郎が出向き、左大将様(=近衛忠房)へ段々申し上げたところ、迅速に御承知あり、二条殿も御同様だったので、今夜半(の決行)と決定した。薩摩は陽明殿を守衛し、会津は尹宮・二条殿参殿を守衛いたした・・・。
(出所:『伊達宗城在京日記』p209-214より作成)

<ヒロ>
政変から約2か月半後の回想となります。時系列を含め、他史料と微妙に異なる点がありますが、まとめるとだいたいこういう流れになります。((ピンク)は他史料から確認できる日付)。
  1. 高崎(左)が、西国鎮撫を固辞したい中川宮に対し、天皇への(急進派公卿の)「御處置」直奏をもちかけた。中川宮は高崎の策を承諾
  2. 13日夜)高崎(左)は、中川宮の「御承知」のもと、直ぐに会津藩邸(三本木)に赴き、政変をもちかけた。高崎(左)/薩摩藩が会津藩を選んだのは、在京薩摩藩では兵力が少なく、(太兵を擁する)会津と協力せねば、首尾よく成功しないと判断したためである
  3. 13日夜)会津藩邸では秋月梯次郎が応対。同意するものの、まず(黒谷の)容保に報告すると返答。
  4. 高崎(左)は中川宮に復命。ところが、宮は、宮中で祭事があり、法体の自分は参内できないので、近衛前関白に相談するよう命じる。
  5. 高崎(左)の話をきいた近衛前関白は、慎重論を唱え、参内には応じず、書面での中川宮召命の奏聞も拒む。(13日深夜
  6. 高崎(左)は、近衛前関白の件を中川宮・会津に知らせる。その結果、中川宮が参内・直奏が決定。
  7. 16日)朝、中川宮が直奏したところ、天皇は慎重論を唱えて勅命は得られなかった。
  8. しかし、その夜、天皇は決断(16日)。中川宮に、宮・薩摩が関わるのは「不宣」、因幡・会津に処置させよとの宸翰が下る。
  9. 17日高崎(左)は、中川宮に対して宸翰の指示に異を唱え、成功するには中川宮が指揮をとるべきであること、さらに、今さら他藩(因幡藩)には申し付けられては「不相済」、会津・薩摩でやりたい、と主張。また、近衛・二条家の同意も会津と薩摩とりつけるからと説得。中川宮はとうとう承諾
  10. 二条家には会津の秋月、近衛家には高崎(左)が参殿して、両家の同意を得る。
  11. 今夜半(17日夜半)決行に決定。前関白の参内は薩摩が警護、二条右大臣・中川宮の参内は会津が警護、と決まる
とくに、この回想からわかったところは下線で示しました。先に中川宮の内諾を得てから会津藩に行っていたとされていますが、急進派処置及び会津藩との連携は、その場の高崎独断ではなく、前々から在京薩摩藩有志で合意がとれていたと思われます。

それにしても、勅命にあった因幡藩が政変から除外された理由が、因幡藩内の尊攘急進派から事が漏れるのを恐れたわけではなく、単なる薩摩の縄張り意識からだったとは・・・・・。朝議での攘夷親征論の高まりに対して、会津や薩摩が何も手を打たずに傍観していたのに対し、因幡藩は天皇の内命やら二条右大臣の内命やら中川宮の内命やらを受けて、奔走していて、だからこそ、孝明天皇もわざわざ、指名したんだと思うのに・・・。もし、孝明天皇からの勅命があったら、18日、藩内の急進派が暴発せず、君側殺害も発生しなかったかもしれないのに・・・。

参考:『伊達宗城日記』p209-214

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