12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月1日(1863年12月11日)
薩摩藩、生麦賠償金七万両を支払う
【京】二条斉敬右大臣・薩摩藩小松帯刀、春嶽に国事の意見をきく
春嶽、朝幕が「私」を棄て「天理」に基づくこと、
政体は衆議で決定することなどを述べる
【江】老中連署して勅書奉戴を伝奏に送り、容保に書状を付与
【京】容保、幕府目付戸川に但馬(生野)鎮撫を命ずる

■生麦事件賠償問題
【江】文久3年11月1日、薩摩藩は生麦事件賠償金七万両を支払いました

この日、藩主島津茂久の使者、岩下佐次右衛門(家老代)・重野厚之丞らは英国公使館で代理公使ジョン・ニール(John Neale)と会見し、生麦事件の賠償金七万両(十万ドル)、及び下手人は捜索・逮捕次第死罪に処すとの文書も交付しました。ニールは、同藩のために軍艦購入の周旋をすると約束する証書を交付しました。この場には、外国奉行支配役鵜飼弥一・目付斎藤勤吉が列席しました。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史料綱要』(2001.12.11)
関連:「開国開城」「文久2年:生麦事件」■テーマ別文久3 「生麦事件償金支払問題
■参与会議へ
【京】文久3年11月1日、松平春嶽は二条斉敬右大臣を訪ね、「賢明諸侯」会同・七卿処分等について意見を述べました。対話の大意は以下の通り。

<公武合体のための「賢明諸侯」会同と将軍家茂再上洛>
二条 当春(春嶽が)御上京の際は国家の為に格別に御尽力あったが、その頃は三条実美ら暴論の輩が在廷しており、詮無く、遂に御帰国となったのは非常に遺憾であったが、このたび再び御上京となり、安心した。さて、今度御上京の命を下されたのは、畢竟、公武の御合体を願われることから起ったことである。御合体はとても拙者共(=公卿)だけでは取り計らいかねる事なので、賢明の諸侯を会同させる事となったのである
春嶽 当春、総裁職を辞して帰国しましたのは、当時の形勢は到底真の叡慮貫徹させぬものであり、真の叡慮が貫徹しないのは、畢竟、自分が不才不徳の身をもって重職を務めているからだと考えたからです。今日でも不才不徳は変わりませんが、公武の御合体は国家の為重要な事ですので、及ばずながら気づいたことは建白もいたし、御下問があれば上答もいたす所存です。
二条 過般、大和行幸の沙汰があった時は拙者も供奉する筈であったが、途中で鳳輦を奪うという密計があるやもと聞き及んでおり、万一そのような事があればとても拙者共の力で支え得ず、非常に憂慮していたところ、八月十八日の一挙で沙汰止みとなり、誠に安堵いたした。また、近々に大樹公が是非上洛されなくては御合体の程も覚束ぬので、横浜鎖港の談判中にも関わらず再び上洛を促されたのである。
春嶽 厚い御配慮、実に感じ入ります。三郎及び細川両人は既に着京し、一橋も不日上京する予定ですので、共に議を尽し、厚く尽力いたしましょう。しかし、この際、朝廷も幕府もいささかも私意をはさまれず、自然の天理に基づき、公平の御処置をされる事を希望いたします。もっともこの事については別に愚見がありますので、なお衆議を尽くし、重ねて申し上げます。
二条 ごもっともである。「攘夷にも攘夷あり、彼の長州の如きは実に無謀の攘夷」である。この事は、現に、主上の叡慮でもあり、尹宮・陽明家も同様の考えである。
<七卿処分>
二条 脱走した七人のうち、三条実美・四条隆謌・豊岡隋資・滋野井実在 などは真の暴論だが、その外は名のみの暴論なので、三条以下四人は武辺で然るべく考えてほしい。
武辺にて然るべくとあれば犬馬の労は辞しませんが、朝廷には決してお動きなきよう希望いたします。
<越前藩挙藩上京計画>
二条 当年夏ごろ、足下(=春嶽)が大兵を率いて上京されるとの風説が頻りであった。実際はどうだったのか。
春嶽 幣邑(=範地)は帝都に近く、先祖秀康以来、京畿に事あれば速やかに出京して鳳輦を守護することを第一の任としております。当時摂海へ夷船が渡来する懸念があり、いよいよその事があれば慶永父子が速かに上京し、その任を尽すという決心で家臣共へも指示しておりました。これが浮浪の輩を驚かしたのでしょう。(←ごまかしています:笑)

参考:『続再夢紀事』ニp205-207(2004.12.14)
関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年:「参与会議へ」「横浜鎖港交渉」「将軍・後見職の再上洛」「長州処分&家老の入京歎願「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」徳川慶喜日誌文久3
■参与会議へ
【京】文久3年11月1日、薩摩藩小松帯刀が松平春嶽を訪ね、国事に関する意見をききました。対話の大意は以下の通り。

<公武合体のための「賢明諸侯」会同と将軍再上洛>
小松 大樹公御上洛に関するお考えはいかがでしょうか?最近、承ったところによれば、関東にては一橋公・板倉候が御上洛を主張されましたが、大小監察が拒んだめ、今もって決定されないとか。一橋公は先月二十六日に出帆されたとの事ですが、大樹公が引き続き御上洛されねば、公武御一和に至ることはおぼつきません。そこで、このたび薩摩から福岡清蔵、筑前から黒田山城、肥後からも一名を東下させることになりました。尹宮(=中川宮)の思召しも伺ったところ、是非とも御上洛でなければ不都合だと仰せになりました。
拙者も御上洛なくては適わないと存ずる。
小松 一橋公の着京の上はどのような事を御相談あるのでしょうか?
幕府の私を棄て、公共の天理に基づくの外あるべからず。尤、幕府其私を棄る事となりても、其後の政体万一公共の理に適わずては詮無き事故、衆議によりて決定する事にせざるべからず
小松 土州候(=山内容堂)の上京は未だ分明ではありませんが、宇和島老候(=伊達宗城)は既に大坂に着かれたということです。三郎(=島津久光)は一橋公の御到着を前に皆様がお集まりになり、今後の目的を概ね定めておきたいと申しております。お考えはいかがでしょうか?
拙者も同意である。
<勧修院宮済範>
小松 元勧修院宮済範様は二十年前に御失行があって御慎み中ですが、すこぶる度量のある御方で、皇国の為尽力したいというお気持ちだと承ります。この事もお集まりの時に御相談になり、何とかそのお気持ちが遂げられるように進めばと願っております。
<長州&七卿処分>
小松 長州及び脱走七卿の御処置もこの際何とかご決定になる事を希望しております。
その事は過日三郎殿にもご返答に及んだが、朝議次第である。

参考:『続再夢紀事』ニp207-210(口語訳by 管理人)2004.12.14
関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年:「参与会議へ「将軍・後見職の再上洛」 「長州処分&家老の入京歎願 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■将軍家茂再上洛
【江】文久3年11月1日、老中は将軍再上洛を命ずる勅書の奉承書を武家伝奏に送りました。

同時に容保に関東の情勢を報せる書簡を付与しました
「初冬仲三日の書簡拝読仕り候。追々寒冷相催し候處、先ずもって公方様ますます御機嫌よく、御同意恐悦存じ奉り候。二に閣下ますます御清康御勤仕成され、恐賀奉り候。

然は御上洛の義仰せ出されるの趣敬承仕り候。則言上仕り候處、委細に御敬承成られ候。然る處、御役人向き、種々議論も此れ有り、仰せ出され方遅緩に相成り、恐れ入り候。今日表向き仰せ出され候間、追々御用意御取懸りにて、大和殿(=新政事総裁職の川越藩主松平直克)始めに於て同列若年寄りはいずれにも御上洛然るべきと存じ込み候へども、役々種々見込み申し出候。其の内御勝手御入用筋に、第一当惑仕り、誠に御難しく、実に心痛種々申合い候。二には関東も浮浪の徒、昨今乱暴の所業之有り、専ら取り鎮め方申合い居り候、道中宿駅等も疲弊に及び、人気立候ても、自然士民方一揆様の義至り候ては、以ての他の事故、如何にも御手軽に御船の方然るべきとも申合い候。何れ御家来へも委細申し置き候様仕り候。先ずはあらましのところ、じゅんじゅん申上げ候。

程無く中納言殿(=慶喜)にも御着京に相成るべく、関東の事情は御伺い成らるるべく候。横浜鎖港の義も追々談判に及び、先ず使節遣され候事に落着致し候。御人選も略相極まり、不日に仰せ付けられ候事に御座候。此の段も申上げ置き候。早々頓首」(『七年史』ニより。候文をさらに書き下しby素人の管理人、句読点は任意。原文として扱わないでください)

参考:『七年史』ニ(2001.12.11)

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