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文久3年11月10日(1863年12月20日)
【京】松平春嶽、勝海舟に老中板倉勝静の上京周旋を依頼

■将軍家茂再上洛
【京】文久3年11月10日、前越前藩主松平春嶽は江戸出張中の軍艦奉行並勝海舟に書簡を認め、将軍家茂の上洛に老中板倉勝静が随行するよう周旋してほしいと依頼しました。

(前略)昨日、小松帯刀(=薩摩藩士)、此の旅館(=春嶽の宿舎)へ入来にて家臣へ咄し候中、今般(将軍の)御上洛の節、松山閣老(=老中板倉勝静)は供奉に相成らざる趣、申し聞け候。兼て御咄し合い申し候通り、今般の御上洛の節、御盛挙は別て皇国の安危に関係し、第一、公武の御一和開かせられ、太平の基本、至極の御大切と存じ奉り候。万一寸毫の御蹉跌之有り候ても、挽回の道は覚束無しと存じ奉り候得ば、実に日夜不安寝食焦痛のみ罷り在り候。今般は、姫路、山形、松山三閣老(酒井、水野、板倉)共御供奉にいたし度と存じ奉り候程の心底に御座候間、是非松山閣老は御供奉相成り候様致したく、姫路、山形両閣老のうちにて御一人、御供奉にいたし度と存じ奉り候。足下(=勝)、小生の寸衷御同意の事にも候はば、夫ゝ(それぞれ)仰せ立てられ、御尽力伏祈此事に候。若(もし)又御背意にも候はば、足下限りに希い候。(後略)

<ヒロ>
板倉は、この頃、将軍家茂に嫌忌され、幕閣で疎外されていました。一時、登城を禁じられていましたが、慶喜の奮闘で復職します(こちら)

春嶽は海舟東下前の10月23日に、将軍及び後見職一橋慶喜の上洛周旋を指示していました(こちら)。春嶽と勝の共通の「寸衷」とは、越前藩の藩論(こちら)を指すと思います。もちろん一翁・小楠とも共通する論となるはずです。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「将軍・後見職の再上洛」
参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p131(2004.12.15, 12.21)

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