12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年10月23日(1863年12月3日) 
【江】一橋家側用人中根長十郎暗殺される
【江】幕府、会津藩に役地五万石を付与
【京】軍艦奉行並勝海舟、松平春嶽訪問
【京】守護職松平容保、十津川郷民の救済策を命ず

■慶喜再上京&中根長十郎暗殺
【江】文久3年10月23日、将軍後見職一橋慶喜の発駕を3日後に控えたこの日の暮六頃、一橋家側用人兼番頭の中根長十郎が暗殺されました

<ヒロ>
中根は慶喜の随行メンバーで、この日公務を終えて帰宅の途上に浪人らしき者に斬られました。温厚な人物だったそうで、誰がなぜ殺したのかは不明のままでした。一説に慶喜の上洛を喜ばない攘夷論者のしわざ(慶喜が上洛すれば開国が国是になると危ぶんだ)といわれています。

慶喜は、当時、攘夷論者とみられていましたが、攘夷が進まないのはその側近に開国派の平岡円四郎がいるからだと思われていたそうで、平岡は「近日有志の士に斬害せらるべし」とも噂されていたそうです。平岡ではなく長十郎に害が及んだのは、過日、攘夷浪士が平岡に面会して詰問したときに中根に責任転嫁し、浪士が中根を詰問しようとしても中根が面会に応じなかったからだとも噂されたようです。無論真偽は不明です。平岡は水戸藩士にも詰め寄られたことがあるというので、中根を殺したのは水戸系浪士だったのかもしれない・・・と思ったりします。

なお、平岡は翌元治元年6月に水戸藩士に暗殺されました。その理由は「去年より一橋中納言を因循に陥れる」でした。平岡亡き後の慶喜第一の側近であった原市之進も、やはり「慶喜の英明を覆う奸物」として、慶応3年8月に幕臣によって暗殺されています・・・(背後には山岡鉄舟がいました)。

参考:『徳川慶喜公伝』2、『官武通紀』(2001.12.3)
関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3

■勝海舟
【京】文久3年10月23日、軍艦奉行並勝海舟は前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽を訪ね、江戸から急報があり、東下することになった旨を告げました。

春嶽は、勝に対し、以下の3点を指示しました。
江戸到着の上は、慶喜に横浜鎖港交渉の状況に関わらず一日も早く上京するよう具申すること。
2 今度は当春在京中のような事情もなく、その事の配慮には及ばない。自分は、平心虚懐真率を旨とし諸有司を具せずに上京するを上策とし、諸有司を具して上京するを中策とし、講武所・水戸藩等の人までを具して上京するを下策とし、決して下策は執らぬよう希望するものである。この事も然るべく具申すること。
3 大樹公(将軍)も是非上洛あるよう閣老に申し立てること。
勝はこれらを承諾し、<改めて申し上げるまでもない事ですが、公には兼ての御持論(こちら)をを動かされず、必ず貫徹されるよう希望します>と述べたそうです。

参考:『続再夢紀事』ニp199-200(2004.12.11)

■守護職
【江】文久3年10月23日、老中水野忠精(和泉守)は会津藩の江戸留守居役を呼び出し、さらに役地5万石を付与しました

参考:『七年史』ニ(2001.12.3)
関連:■覚書「守護職と財政(1)守護職会津藩の膨大な赤字」■守護職日誌文久3

【京】文久3年10月23日京都守護職松平容保は十津川郷民が一揆等のために惨状にあるのをきき、救助策(御救金と御救米)を京都詰勘定吟味役鈴木大之進に命じました

<ヒロ>守護職=浪士狩りや治安担当に思われがちですが、畿内の諸政にもあたっていました。勘定吟味役という幕府の役人に指示を出している点も、京都幕府的な守護職の職掌をよくあらわしていると思います。

参考:『七年史』ニ(2001.12.3)
関連:■守護職日誌文久3

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