1月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ


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文久3年11月26日(1864年1月5日)
【京】後見職一橋慶喜入京。松平春嶽、慶喜を訪ね、国事の意見交換
(薩摩藩への嫌疑、中川宮・会・薩への報酬、
江戸における守旧派・板倉勝静罷免問題、家茂VS慶喜)
【江】京都町奉行永井尚志、着府。幕府、12月下旬の将軍出発を決定

■参豫会議へ
【京】文久3年11月26日、将軍後見職一橋慶喜が入京し、東本願寺の宿舎に入りました

京都には、既に、島津久光、松平春嶽、伊達宗城ら有力諸侯が入っていました(それぞれ、10月3日、10月18日、11月3日着)。

<おさらい:横浜鎖港問題と慶喜上京>
慶喜は、東帰後の5月14日、横浜鎖港の勅旨を貫徹できないことを理由に後見職辞表を朝廷に提出し(こちら)、却下されると、6月13日には即時攘夷ができないことを理由に二度目の辞表を提出しました(こちら)。さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分に関して、幕府が自分の意見を採用せず、後見職は名のみで実がないと、6月24日には3度目の後見職辞表を朝廷に提出しました(こちら)。今度も、朝廷から強く慰留されたため、「上京の上委細天意を伺ひ、御沙汰次第、如何やうにも捨身の微忠を尽し奉るべし」との決意を朝廷奏したそうです(こちら)。前後して、京都では将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、7月18日に、慶喜に上京の台命が出されました。しかし、幕府は鎖港交渉開始を決定したため(老中以下有司と在府諸侯に不実の交渉開始を通達こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期されていました。

8月18日の政変で、攘夷親征を主唱していた尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されましたが、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、翌19日、朝廷は、攘夷督促の令を出しました(こちら)。政変後、幕府には、将軍が再上洛し、その上で開国・鎖国の利害を奏上すべきだとの意見も起こりましたが、23日、慶喜と老中板倉勝静の主張で、鎖港の上での将軍上洛を決定しました(こちら)。一方、9月1日、朝廷は攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下しました(こちら)。また、14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を督促しました(こちら)。同日、江戸では老中が米蘭公使と会見し、横浜鎖港交渉が開始され、27日、朝廷に、鎖港交渉開始に関する慶喜・老中の上奏書が、容保より奏上されました(こちら)。また、10月6日には前尾張藩主徳川慶勝が別勅使東下中止の上書を提出しました(こちら)。7日、朝廷は別勅使東下猶予を決定するとともに、横浜鎖港交渉について聞くためとして、慶喜の上京を命じると(こちら)、さらに、10日、将軍の上洛も命じていました(こちら)。幕府は、17日、将軍上洛を辞退し、慶喜に上京を命じました(こちら)

慶喜は、10月26日に軍艦蟠龍丸に乗船して海路上京の途に着きました。随従の講武所200名、一橋家床机廻約1,000名は前日に陸路京都に向かって先発していました(松平春嶽が是非とも避けたかった「下策」ですこちら)。慶喜が海路をとったのは、宿場宿場の本陣に放火するという予告状があったり、側用人中根長十郎が暗殺されたり(こちら)という事件があり、陸路を避けたかったからだと思います。慶喜は浦賀で勝海舟の率いる軍艦順動丸が入港してくるのを待ち受け、11月1日に移乗すると、陸路をとった兵士らと同時に入京するために航海を急がず、兵庫に着港したのが同月12日、同21日に大坂城に入城し、この日、ようやく入京しました。出発から1ヶ月が経過していました。

同日午後、前越前藩主(前政事総裁職)松平春嶽は早速慶喜を訪ね、国事(薩摩藩への嫌疑、中川宮・会・薩への報酬、江戸における守旧派伸張等)について意見交換をしました。対話の大意は以下の通り。

●慶喜の強情
春嶽 先日来、中川宮は公武合体の事を格別にご配慮され、当春合体に至らなかった事を今もって気の毒に思われているそうである。叡慮(=天皇の考え・気持ち)も同様だとの事。しかし、尊卿が当春在京中、殊の外強情だったのには(中川宮は)困却されたそうで、今度も当春のようならば何事も円滑には行えぬので、なにとぞ今度は強情を張らぬようしてほしいと仰せである。くれぐれもご注意を願いたい
慶喜 そのような次第ならば、今度は合体を庶幾するだろう。強情は決して申し出さぬよう注意しよう。

●薩摩藩に対する嫌疑
薩の心中をお疑いか?
江戸(=幕府)では大いに疑っており、拙者も同様だったが、疑っても何の益もなき事ゆえ、最早疑わぬ心得である。
小生と三郎(=薩摩藩国父島津久光)は兼て懇意に致しているが、専ら正義を唱える人である。然るに幕府がそのように疑うのは実に損あって益無き事である。尊卿が疑わぬとあれば、今晩直に書を遣わし、明日お招きしては如何?
いかにもご尤もである。直に書簡を遣わそう。

●中川宮・会津藩・薩摩藩への報酬
春嶽 八月十八日(=禁門の政変)の事は中川宮のご配慮及び会藩・薩藩の尽力が抜群であり、今度、報酬の詮議があればと存ずる。会津よりきく処、宮の家禄3,500石は未だ定まっておらぬそうで、ご住居も殊の外狭い。この二件を詮議すべきか。会も加禄くらいの沙汰は如何だろう。薩は必ず疎外されぬよう希望いたす。

●江戸における守旧派(幕権回復派)の伸張・板倉勝静罷免問題
 そして、家茂(18歳)と慶喜(27歳)の対立
慶喜 江戸の有司はすべて旧習に固結し、その有様は何とも名状しがたい。板倉(=老中板倉勝静、備中松山藩主)も非常に危うく、解職となるべき勢いだったのを、拙者が争い、からくも食い止めた。昨年、御同事に相談致した頃に比べれば、実に格段の相違である。松平縫殿頭(若年寄格松平乗謨)なども今は旧時の幕府に復さんとする心底かと察せられる。

彼の防州(=板倉)を退けんとした時などの閣老の辞柄(=言い草)は、<当春将軍滞京中に防州一己の計らいで御用向きの返書を出したことがあり、上様が御用部屋に入られた時、防州は足を伸ばしたまま正座しないことがあった、これらは皆、上様を軽蔑するからである>というもので、遂に板倉が台慮(=将軍の気持ち)に叶わぬ事となり、引篭るよう命じられたそうだ。

その頃、江戸では、拙者が当春大樹公に先立ち東帰した事(こちら)を、<朝廷と謀り、江戸を焼き払い、将軍に立つためであり、大樹公に毒を進める密計もあった>など言い囃していたため、自分は引き篭もっていた。しかし、たとえ台慮に叶わぬにもせよ板倉に引篭るようにと命じる程の事ならば、一応後見職(=慶喜自身のこと)へ御沙汰の上御処置あるべきはずなのに、何事もなく引篭らせたのは不都合だと思考した故、奮然登城して意見を申し上げたが、大樹公(=将軍)はお聞入れなかった。

翌日再び登城したが、この日は風邪気味で対顔できないとのことであった。拙者は不審に存じ、<昨年麻疹に罹患中さえ春嶽と共に台前(=将軍の前)に出て御用向きを伺った事がある。然るに今日は軽い風邪を理由に対顔されないとは如何の次第か>と申し立て、初めて対顔できることとなった。さて、防州の事をまた申し上げると、やはりお聞入れなかったので、一応御前を退き、閣老へ防州出勤の事を談じたところ、異議なしと返答した。そこで、閣老よりも申し上げるようにと打ち合わせ置き、さらに台前に出て(板倉の出勤を)お勧め申したが、依然お聞入れにはならない。だからといって諦めるわけにはいかぬので、再び御用部屋で閣老に相談したが、内実は(板倉の出勤を)好まぬようで、ただただ低頭するのみで判然とした返答はしない。よんどころなく、またまた御直に申し上げ、<この度は御一己の御喜怒によて重職の進退を決せられるべきではありません。是非に拘らず防州を退けられるのであれば、まず慶喜の御後見職を解き、然る上、お計らいありますよう>とまで申し上げると、初めて<では明日までに勘考しよう>と仰せ出された。<御勘考されるならば、今夜は慶喜は営中に留まり御沙汰を待ちましょう>と申し上げると、閣老を召して御相談あったが、閣老は甚だ困却し、この上は致し方なしと思ったのか、(結局、将軍は)周防守(=板倉)の件は後見職の申し立てに任せようと仰せ出された。この一件は殊の外難しく、その日は夕七つ頃より夜四つ頃に至った。

さて、(将軍は)防州のことは御開悟されたようだが、その仰せ出され方は、なお甚だ不都合だと思考し、<後見であっても重職の閣老を自己の家臣に等しく勝手には扱いがたい>と申し立てると、<では明日より出勤するよう達そう>と仰せ出され、即、閣老より防州へその旨を通達する事となった。ところが翌日になり、防州はやはり出勤しなかった。その仔細を糾したところ、防州の屋敷に行った閣老は<上様には思し召しに適わずとの事だが、御後見より強いて御申し立ての旨があった故、出勤を仰せ出された>と述べ、かつ通達の書面にも<一橋殿より仰せ立てられた旨があり出勤を仰せ出された事なので、進退は勘考次第>と申し添えていた。それゆえ、拙者からさらに只今出勤するようにと申し遣わすと、防州は直ちに出勤したので、閣老一同は大いに愕然とした様子であった。
春嶽 驚き入る次第である。(閣老はあてにならぬので)尊卿と総裁職(=川越藩主松平直克。に就任)とで政権を掌握せねば到底「美事」は行われないだろう。
川越(=直克)は諸事拙者と同論で至極都合がよい。追々事に慣れれば愈々宜しいだろう。しかし、目下は閣老が権を専らにして川越には少しも権を与えず、又、拙者とても、諸有司等を呼び出す時以外、対談を請う者は一人もいない程である。

●横浜鎖港問題
十八日の件が江戸に伝わった後は、鎖港談判は頓と弛んでいる。

<ヒロ>
現在からみれば、8.18の政変は、幕府にとって大きなチャンスだったと思うのですが、急進派公卿と長州を追い出したことで安心してしまい、チャンスを自ら潰していることがよくわかりますよね。そもそも、政変自体、会津藩と(大嫌いな)薩摩藩、そして中川宮の協力で起こしてもらったわけですが、そこに目をつぶってでも、これを機に、堂々と主導権をとって京都政局を動かし、公武一致の大開国へ・・・というわけにいかないところが、幕府の限界だったというか・・・。

とりあえず、慶喜は、この日、春嶽が説いた久光との協調には反論しなかったので、このあと、慶喜や春嶽を中心に、久光を含む有力諸侯が集まって、いろいろ相談することになります。

それから、慶喜に対する幕閣の猜疑及び家茂の微妙な感情(将軍後継問題で争ったことのしこりなのか、敵愾心なのか、優れた者に対する嫉妬なのか?)、そしてそれらに対する慶喜の反応・・・は、今後の政局に、大きく関わってきますので、注目!です。板倉罷免問題に対する慶喜の奮闘ぶりは、やはり「強情公」の呼び名にふさわしいですよね(笑)。

それにしても・・長かった〜。読まれた方もお疲れ様でした。(ほんとは、大久保一翁の書簡が控えていたのですが、さすがに力尽きました。)

関連■開国開城「将軍後継問題と条約勅許問題「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「横浜鎖港交渉」「大和行幸と禁門の政変」「参与会議へ」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3徳川慶喜日誌文久3■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp246-250。(意訳は管理人。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)(2005.1.5)

■家茂再上洛
【江】文久3年11月26日、京都町奉行永井尚志が使者として江戸に到着し、老中に対して速やかな将軍上洛を説きました。

同日、幕府は将軍が12月下旬に出発することを内定しました

<おさらい>
幕府は、11月5日、幕府は将軍上洛の勅書を奉承しました(こちら)が、監察(目付)ら有司中にはなお上洛反対を唱える者が多く(こちら)、上洛はすぐには実行されませんでした。

永井の東下の経緯はこちら


参考:『徳川慶喜公伝』2、『七年史』二(2002.1.5)
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