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文久3年12月20日(1864.2.8)
【江】士道忘却事件(2)肥後藩、士道忘却を理由に、越前藩に横井小楠引渡しを要求

■「士道忘却」事件(2)
【江】文久2年12月20日、肥後藩は越前藩に横井小楠の引渡しを求めました。これに対して、小楠の安全を懸念する越前藩は、引渡しを拒み、来春、春嶽が上京して肥後藩主細川慶順と直に話し合うまで小楠の身を預かることに決めました

前19日夜、小楠は江戸留守居役吉田吉之助・藩士都築四郎と歓談中に「狼藉者」(実は肥後勤王党の刺客)に襲撃され、両刀を取りに越前藩邸に駆け戻って現場に引き返しましたが、刺客は既に姿を消しており、吉田は重傷(その後死亡)・都築は軽傷を負っていました(こちら)肥後藩では、その場で小楠が応戦しなかったことを「士道を失えるもの」として問題視したのです。

◇肥後藩家老沼田勘解由、小楠引渡しを内々に要求
この日の朝、肥後藩家老沼田勘解由が越前藩邸を訪れました。越前藩用人中根靱負(雪江)が小楠と共に応対したところ、沼田は、事件は平之助(吉田)を狙ったものであり、小楠が対象ではなかった等述べました。

帰り際、沼田は中根に対し、<このような「不調法者」(=その場で応戦しなかった小楠)をこのまま越前藩に置いては恐れ入る次第である。肥後藩邸に引取って謹慎させたい>と内々に申し入れました。

◇春嶽の懸念
肥後藩の要求をきいた春嶽は、<肥後藩では小楠一人が無傷で朋友を助けず逃げ帰ったとの認識のようである。引取った上はどのような処置に及ぶか測りがたい>と心配し、協議の為に沼田を呼び出すと、<平四郎(=小楠)は沼山に閑居していれば安楽だったところを、強いて招聘し、信用していたのだが、(春嶽の)不徳ゆえにこのような「禍害之発動」になり、非常な心痛である>と小楠を弁護し、<(肥後藩の)家法に干渉する気はないが、この心中を察し、然るべき処分にして欲しい>と頼みました。

それを請けて退座した沼田は、控所で、中根に<不慮とはいいながら、場所柄も宜しくなく、女性も同席だった様子である。(藩邸では)どのような重科ともなる勢いだが、(春嶽から)懇ろな依頼もあったので尽力してみたい。いずれにしても龍ノ口(肥後藩邸。江戸城大手門外龍ノ口にあった)に引取りたい。肥後表には勤王家も多く、(送還するのは)懸念がある次第である>など語ったそうです。

◇小楠の帰国願い
夕方、小楠は、病気で勤務が難しいので国許(肥後)へ帰してもらいたいとの口上書を中根靱負(雪江)に提出しました。小楠は、その際、中根に対して<熟考したところ、その節は思わず腰刀がなくてはと越前藩邸まで戻って引き返したが、今となれば、二階から下りてすり鉢でもすりこ木でも取って応戦すれば良かったのだが、その場では腰刀のことが頭にあったので、後れをとった>と述懐し、この点が「士道立ち申さず候事」となれば、「士道へかけての御懸合は一切之無く、武士は棄(すた)り候と成し置かれ候様(ヒロ訳:(小楠の士道が立つかどうかという)士道をかけての交渉は一切せず、小楠の武士はすたったということにしてくれるように)」と願ったそうです。

◇肥後藩、再び、小楠の引渡しを要求
同じ頃、肥後藩士清田新兵衛が越前藩の大道寺七右衛門を訪ね、「不束之始末」のある小楠を越前藩に貸し出して置くのは「恐入不安心至極」なので引取って謹慎させ、その間に越中守(11代肥後藩主細川慶順)の意向を確かめたい、と申入れました。大道寺は春嶽帰邸後に回答しようと答えました。

◇越前藩、小楠を預かる方針を決定
越前藩執政は評議の結果、肥後藩邸における小楠の警衛には懸念があり、また肥後に送還されるとすれば、その道中はなおのこと危険であり、肥後はいうまでもなく「敵中」であることから、小楠を引き渡せば、どう転んでも、小楠は危難を避け難いと判断しました。かといって、越前藩で預かっても、春嶽在府中はともかく、上京して留守になればとても警護は及ばず、また福井に派遣するとしてもその道中に懸念がありました。そうはいっても、これまで「非常の御寵遇之有り候者を、小過の為に御手を放され、危険の地に置かれ候ては愛士の御誠意も相立ち申さず、天下有志の望にも相成る」ので、とにかく肥後藩に引き渡さないとの方針で応対すべきだと決めました。

帰邸した春嶽は執政の意見に同意し、「元来小楠の白刃を凌がざるは文天祥が牢を■(欠字)り候意味にて、命さえ之有り候へば為すべき事あるの見識にて、瑣々たる小節を以て論ずべきには之無く候」だとして、小楠の行動を肯定しました。さらに、自分が(翌年1月に)上京したら、慶順と直接会って話すので、それまでは肥後藩に小楠を引き渡さぬよう交渉するようにと指示しました。

【文天祥=南宋の武人で、元に捕縛されて牢につながれ、仕えるよう再三説得されたが、3年間、断り続け、ついに斬首された人物。獄中に詠んだ「正気の歌」は有名ですよね。尊攘家に崇拝されている文天祥の故事を使って小楠の行為を正当化していると思うのですが、■にどんな言葉が入るのか、現在の管理人の能力ではわかりません。】

<ヒロ>
肥後藩は、刺客の目標は吉田であり、小楠は無関係だと断言しています。江戸藩邸を脱藩して襲撃に参加した足軽の黒田・安田が藩邸を出るときに吉田を斬ると言い残したというのですが・・・。黒田らがこのようなことを言い残したとすれば真の目的を隠すためのカムフラージュだとは思いますが、吉田も対象だったのでしょうか・・・?

越前藩、肥後藩、小楠、それぞれの「士道」に関する考え方の違いが面白いと思うんですけど、能力不足につき「続再夢紀事」4ページ分の意訳で力尽きました・・・。いずれ。(小楠の『国是三論』の士道論についても勉強して整理したいですし。小楠は、今、一番関心がある人物なので、表舞台から引っ込んでも、追っかけしていく予定です^^!)

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.8)
関連:■今日:士道忘却事件「(1)小楠、肥後勤王党刺客に襲撃される」「(2)肥後藩、越前藩に対して小楠引渡しを要求」「(3)越前藩、藩主同士の直談まで従前通り小楠を預かりたいと申入れ」 「(4)肥後藩、小楠の越前藩預りを承諾「(5)小楠、福井に向って出立。」■テーマ別:「横井小楠

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