2月の「今日」  幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久3年12月21日(2.9):
【江】士道忘却事件(3)越前藩、肥後藩に藩主同士の直談まで小楠を従前通り預かることを提案。/
【江】春嶽、蒸気船咸臨丸に試乗

■士道忘却事件(3)
【江】文久2年12月21日(1863.2.9)、越前藩は、肥後藩から引渡し要求のある横井小楠の件について、藩主同士の直談まで従前通り預かることを提案しました。

この日の四つ過ぎ、越前藩家老岡部豊後と用人中根靱負(雪江)は、肥後藩からの横井小楠引渡し要求について話合うために、肥後藩家老沼田勘解由を訪ねました。

越前藩側は、春嶽の意見として、肥後藩には肥後藩の藩法もあることなので、引渡しは勿論だが、藩邸・道中・国許における小楠の身の安全に懸念があり、引渡し後の処置について篤と説明を受け、安心したい旨を告げました。沼田は、小楠は越前藩では「非常のお取扱」だが、龍ノ口(肥後藩邸)では「一介の平士」に過ぎず、国許に帰しても藩から衛士を添えることは不可能であり、道中の安全も請合うことはできず、その身の安危はいかんともしがたいと回答したそうです。そこで、越前藩側は、<それでは春嶽様も安心なさりかねる。常盤橋(越前藩邸)の評議では、越前表への派遣ほど安心なことはないとなったのだが、そのように任せてくださるわけにはいかないか。それも無体に願うのではない。春嶽様も、来春早々上京し、越中守(肥後藩主細川慶順)様にもお会いになるので、その時にこの件を話すから、それまでは従前通りにしたいとの御趣意なのである>と、小楠の身を藩主同士の直談まで福井で預かることを提案しました。これには、沼田も<確かに(小楠は)元々(藩主同士の)直接の約束で貸し出した者であり、直談までと命ぜられては違背はできない>と譲歩しました。ただし、<何分にも、藩邸中が、小楠が逃げ帰ったとしてやかましく議論しており、私も実に困窮いたしておるので、私からはどこまでもお引渡し下さるようお願いするが、その上で(春嶽の)思召しとして、押して命じられれば、枉げてお請けすることになるだろう>と付け加えました。

<ヒロ>
この日の越前藩の折衝は、前日の小楠の希望通り、「士道へかけての御懸合」とはなりませんでした。本音では、小楠が応戦しなかったことを小事だと思っている越前藩はそんなことをオクビにも出さず、肥後藩の家法を認めて、下手に出ています。交渉上手ですよネ。

藩主同士の直談を持ち出されて譲歩した沼田ですが、越前藩に釘をさすことを忘れませんでした。最後に「此件は天下の批判にも相成るべき儀に候えば、聊にても春岳様の御私に相成り候ては御職掌に対され御済み成されず、私共も御私に興し候ては申し訳なく候えば、御公私の際、恐れながら再応御講究くだされ候様」等、申入れたそうです。正論ですし、常々、小楠や春嶽が「私」を排除し、「公」を重視していることを逆手にとったような言い分でもありますよね。中根は「沼田はいまだ三十未満とも申すべき若者にて候えども中々能く心得居り条理を申立候」とし、「天晴成事」だと感心しています。(←沼田のこの発言が、管理人のツボにもはまったのは言うまでもありません^^)

参考:『続再夢紀事一』(2004.2.9)
関連:■今日:士道忘却事件「(1)小楠、肥後勤王党刺客に襲撃される」「(2)肥後藩、越前藩に対して小楠引渡しを要求」「(3)越前藩、藩主同士の直談まで従前通り小楠を預かりたいと申入れ」 「(4)肥後藩、小楠の越前藩預りを承諾「(5)小楠、福井に向って出立。」■テーマ別:「横井小楠

■総裁職の上京
【江】文久2年12月21日(1863.2.9)、明春早々に海路上京することになった政事総裁職松平春嶽は蒸気船咸臨丸に試乗しました

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.9)

前へ  次へ

2月の「今日」  幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ