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文久2年12月23日(1863.2.11):
【江】薩摩藩士岩下左次右衛門、政事総裁職松平春嶽に久光上京の予定を告げる
【江】士道忘却事件:松平春嶽、横井小楠を福井に派遣。

■幕薩連合による公武合体派京都会議策
【江】文久2年12月23日、薩摩藩士岩下左次右衛門は、政事総裁職松平春嶽に、国父・島津久光がいよいよ上京するという国許からの通信があったことを告げました

岩下によれば、久光に上京を命じる書付が鹿児島に到着したのは11月17日で、その後、急遽出京の準備をはじめたので、1月上旬には必ず鹿児島を出発し、中旬には恐らく入京するだろうとのことでした。

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.11)
関連:■テーマ別:将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合による公武合体派会議越前藩と薩摩藩、■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」■薩摩藩日誌文久2

■士道忘却事件
【江】文久2年12月23日、横井小楠が江戸を出立し、福井に向かいました

<ヒロ>
あぁー、小楠が中央政局から姿を消してしまいます・・・。テロによって(涙)。「歴史のIF」は意味がないといいますが、小楠が春嶽に同行して上京していれば、また中央政界に在り続ければと想像せずにはいられません。惜しい・・・。

士道忘却事件による小楠の退場について、松浦玲氏は『横井小楠 儒学的正義とは何か』で、「これまでのいきさつから考えてみても、小楠を欠いた慶永(春嶽)には、仕事を期待できない。しかも、来春の京都はとりわけむつかしいのだ。長州や土佐の尊攘激派、激派志士嫌いの島津久光、山内豊信(容堂)、続々入京してくる大小藩候、幕府部内の複雑な暗闘、それに天皇や公卿たち、そういったものを全部計算に入れ、その日その日の変化に対応しながら方針を立てねばならない。とても慶永一人の手におえるものではなかった。そのことは年が明ければすぐにはっきりする。刺客は小楠を殺せなかったけれども、政治的不自由を課すことによって、十分に成果を上げたのであった」とまとめています。

確かに、文久3年春の春嶽は、文久2年時のような成果を出すこともなく、政事総裁職を(勝手に)辞任して早々に帰国してしまいました。(「開国開城」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌

なお、福井に戻った小楠は、文久3年の中ごろ、帰国してきた春嶽を押したて、決死の挙藩上京を計画します。これまで「今日」登場の機会のなかった由利公正(三岡八郎)なども活躍します。この一連の越前藩の動きは、もちろん、「追っかけ」していきます^^。

参考:『続再夢紀事』一、『横井小楠 儒学的正義とは何か』(2004.2.11)
関連:■今日:士道忘却事件「(1)小楠、肥後勤王党刺客に襲撃される」「(2)肥後藩、越前藩に対して小楠引渡しを要求」「(3)越前藩、藩主同士の直談まで従前通り小楠を預かりたいと申入れ」 「(4)肥後藩、小楠の越前藩預りを承諾「(5)小楠、福井に向って出立。」■テーマ別:「横井小楠

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