2月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■薩摩藩の将軍上洛延期運動 【京】文久2年12月22日、薩摩藩士大久保利通(一蔵)・吉井幸輔が入京し、近衛忠煕関白・中川宮(当時青蓮院宮)に将軍上洛延期を訴える薩摩藩国父島津久光の内意を伝え、建白書を提出したところ、近衛関白は嘉納したそうです。 両名は将軍上洛延期の工作のために、9日に、鹿児島を発っていました(こちら)。 ○久光の建白 近衛忠煕関白への久光の上書は(1)自身の上京の暫時猶予(1月中旬の発足)及び(2)将軍上洛延期(諸侯上洛延期・退京)を訴えるものでした。 (1)上京の暫時猶予 上京の暫時猶予に関する建白書の内容は以下に要約するとおり。 <今般容易ならぬ叡慮をもって上京すべきとの内命をいただき、武門の冥加至極とありがたく存じております。しかし、国許を固めたいと御暇を戴いて帰国して以来、海防はもちろん内政の処置に精力を傾けて参りましたところ、勅使が東下して攘夷の命を下され、いよいよ内?外攘の道を立てねば叡慮を貫徹することは困難だと、海防強化を急いでいたところであり、今、中途で発足すればすべて瓦解するのではと心痛しております。ことに、この国は三分の二が海に面しており、また、先日の生麦事件について、幕府と英国の交渉が未だ決着しておらず、もし、英国艦がこちらに来航するようなことがあれば、皇国の一大事ですので、なにとぞ暫くの御猶予を御前(関白)よりとりなしてくださるようお願いいたします。後三四旬もすれば治定に向いますので、来年正月中には発足いたします> (2)将軍上洛延期 また、久光は「以往の處、益深謀遠慮きっと衆口に御動揺無き様御卓識立たせられ候儀肝要に存じ奉り候」と釘を刺した上で、攘夷の勅命が下ったからには幕府自らが攘夷を指揮するするはずなので、将軍の2月上洛には断固反対すると述べ、その理由を6か条挙げました。(実際は将軍上洛延期及び諸侯上洛延期・退京についての6か条)。
*** また、建白書の別紙には以下の3か条が添えられていました。
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