☆京都のお天気: (嵯峨実愛日記) >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 【江】元治2年1月12日(2.7)、老中松前崇広は、会津藩主松平容保(守護職)・桑名藩主松平定敬(所司代)に書を認め、老中本庄宗秀・阿部正外が率兵上京すること、その目的は賄賂による将軍上洛を阻止・幕府歩兵による御所九門警備の実現であることなどを知らせました。
<ヒロ> なまなましいです・・・。 (おさらい) 元治1年11月19日、幕府は老中松前崇広に対し、長州表の御用のための率兵西上を命じた(こちら)。崇広は23日に兵を率いて陸路西上した。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。しかし、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12月13日、草津に到着した崇広は、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。崇広の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂された(こちら)。崇広は12月15日に入京したが、18日、朝廷は、崇広への応対は慶喜帰還まで見合わせることを決定した。この間、容保・定敬は崇広に面談して、将軍進発促進のための東帰を説得した(こちら)。二条関白・中川宮もこれに加わり、12月23日、崇広は、容保・定敬に対し、東帰して将軍進発に尽力することを誓うと(こちら)、慶喜の帰京と入れ違いで、12月24日に京を出立し(こちら)、元治2年1月8日に着府したが、登城を差し止められていた。 参考:『京都守護職始末』2p346−347 関連:■テーマ別元治1「一会(桑)VS・江戸の幕府首脳」 ■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京」 ◆1/12【小倉】征長副将松平茂昭、小倉出立 |
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