「今日」トップ 元治2年2月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆2/3へ ◆2/5へ

元治2年2月4日(1865.3.1)
【京】老中の上京につき、松平容保の東下の暇の参内中止
老中上京につき、容保東下の暫時延引の内旨。

【敦】天狗党の処分が始まる

☆京都のお天気:曇 (朝彦親王日記)
***
>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
【京】元治2年2月4日(3.1)、所司代は、老中本庄宗秀が明2月5日に着京する予定であると、朝廷に報せました。

同日、肥後藩留守居上田久兵衛は、世上では老中の上京は「橋公を退ケ、会桑を取替、九門之藩兵を撤スル等之策」と評されていると、国許への書状に記しました。(こちら)

参考:「所司代上申書」(綱要DB 2月5日条 No8)、『幕末京都の政局と朝廷』p98-99 (2019/2/3)
関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京

>将軍上洛問題
■松平容保の東下運動
・朝廷の動き
【京】元治2年2月4日(3.1)
容保の東下が老中の上京で延期になったため、この日予定されていた暇の参内がとりやめになりました

(中川宮の日記のてきとう訳)
六條(=議奏六条有容)から「御所便」が来る。
来る7日に御評議が行われる、また、近日の老中上京につき、松平肥後守の東下が暫く延引になったため、今日参内の儀は仰せ出されぬとの趣を、殿下(=二条関白)が命ぜられたいう来書である。

※中川宮は「所労」と称して、1月30日、2月3日の朝議に不参でした。

同日?、二条関白は、会津藩に、両老中の一両日の上京につき、その趣意を篤と承るまで容保の東下を暫時延引すべしとの内旨を伝えました

(『七年史』所収の内旨)
老中松平伯耆守、阿部豊後守等、一両日中に着京候由、右事柄篤と承り、東下不致候ては宜しかるまじく思召候間、東下の儀、暫く見合すべし。

<ヒロ>
二条関白は、2月3日中に会津藩に根回しをして延引の承諾を得ていたようなので(嵯峨実愛日記)、2月4日は、東下延引の内旨を正式に通達したということでしょうか。(ただ、七年史はときどき間違いがあるので、内旨伝達が3日だった可能性もありますが。現に、七年史では、4日は、容保が出立するつもりで旅装だったと書かれていて、混同がみられます)。

(おさらい)
将軍上洛周旋のための容保東下運動は、尾張藩による長州処分討議のための有力諸侯召集運動に対抗するものです。

第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)

一方、朝廷は、征長への将軍の進発を前年から度々督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。1月18日、朝廷は、今度は、将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう勅を下しました(こちら)。ところが、幕府は、長州処分は江戸にて行うつもりであり、将軍の上洛も必要がないとして、1月15日に、上洛延期を布告していました(こちら)。

慶勝は、1月24日に上京すると、朝廷に対して有志諸侯の召集を内願しましたが、これに猛反発したのが会津藩でした。会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も幕府にとっての一大事だとみなし、容保自身の東下・将軍上洛周旋を内願しました(こちら)。慶喜も、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、25日には会津藩・桑名藩とともに有志諸侯召集反対(「列藩召不宣」)の建言を行いました(こちら)。慶喜は、28日に慶勝から有力諸侯召集を主張されると、再度、諸侯召集論に転じました(こちら)が、29日には会津藩の説得でまたまた心が動き、尾張藩と相談した上で、会津藩に任せることこととし、二条関白に容保に東下の暇を与えるよう勧めました。また、同じ日、中川宮も二条関白に対し、尾張の論を「非」、会津の論を「是」とする意見を伝えていました(こちら)

1月31日、容保は、東下の暇を家老神保内蔵助を通じて内願し(こちら)、2月1日、朝廷より許可されていました(こちら)。しかし、2月2日、容保の東下に反対する肥後藩留守居役上田久兵衛の入説で、中川宮・二条関白が容保東下を両老中参内まで猶予することに賛同し(こちら)、2月3日の御前会議で、朝議一変、東下延引が決まりました(こちら)

参考:『朝彦親王日記』一p135-136、『七年史』三p16 (2019/2/3)
関連:■テーマ別慶応1容保の東下運動

↓2001年にupしたものです。
>天狗党処分
【敦賀】元治2年2月4日(3.1)、この日から16日間に渡って、加賀藩に降伏した天狗党の処刑が行われました

天狗党の領袖は元水戸藩家老武田耕雲斎。慶喜が文久3年に上洛したとき、是非相談相手にと水戸藩から借り受け、慶喜のために奔走した人物です。武田らは慶喜に嘆願する旨(慶喜の実父でもある亡き烈公の遺志を継いで攘夷を行おうとするも派閥党争で阻まれ、却って讒言を受けて幕府に追討されるようになったが、彼らの素志は攘夷で、ただ朝廷と幕府に尽くしたいと願っていることを理解してほしいこと)ありと西上していましたが、当の慶喜が追討総督として京都を出発したことを知り、慶喜に抗することはできないとその先鋒である加賀藩に降伏していました。加賀藩では天狗党は武士としての処遇を受けていましたが、その後、幕府の田沼意尊に引き渡されてからは、商家の土蔵に閉じ込められ、足かせをされ食事も満足に与えられないなどの虐待を受けていました。

この日、武田らは斬首され、その首級は水戸に送られて梟首されました。16日間に合計250〜350余人が斬られ、その他は流罪・追放となりました。さらに、元治2年3月に入ってからは武田の妻子・孫までが水戸で斬られ、その他の降伏人40数名も斬られました。土蔵への禁固から始まる幕府の天狗党への酷薄な処分は多くの人々の顰蹙を買ったそうです。

この件について、慶喜は後にこう語っています。
「あれはね、つまり攘夷とかなんとかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこうというわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。しかし何しろ幕府の方に手向かって戦争をしたのだ。そうして見るとそのかどでまったく罪なしとはいわれない。それでその時は、私の身の上がなかなか危ない身の上であった。それでどうも何分にも、武田のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ。降伏したので加州はじめそれぞれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせということにして引き上げたのだ」(『昔夢会筆記』)

参考:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』 (2001/3/1)
関連:■志士詩歌「天狗争乱」 ■「開国-開城」第一次幕長戦争と水戸浪士(天狗)西上■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱 一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

◆2/3へ ◆2/5へ