3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別幕末日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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★京都のお天気:晴天午後陰(久光の日記より) ■二条城会議(容保、容堂欠席) 【京】文久4年2月2日(1864年3月9日)、二条城会議において、1月27日の宸翰布告、横浜鎖港、長州処分が議論されました。 なお、参豫諸侯(特に春嶽)は御用部屋入り(即ち公式の幕政参加)を求めていましたが、幕閣は同意せず、折衷案としてこの日から、慶喜の詰所で行うことになりました(こちら)。会議には、幕府からは総裁職松平直克、老中酒井忠積、水野忠精、有馬道純が出席しました。参豫諸侯のうち、容保・容堂は不参加でした。 (1)宸翰布告問題 春嶽が速やかに布告すべきと主張したところ、総裁職・老中も同意したため、宸翰の布告が決定しました。(『続再夢紀事』) ○おさらい:1月27日の宸翰布告問題 将軍家茂が在京諸侯42名の面前で受取った1月27日の宸翰(実は薩摩藩起草)については、当初、2月2日に布告の予定でした。しかし、その前日(1日)の春嶽・老中らが出席した会議において、慶喜が文中に「開港の意味」が含まれるとして布告延期を提案していました。春嶽は延期に反対しましたが、結論が出ず、この日に参豫諸侯と話し合うことになっていました(こちら)。 (2)横浜鎖港 島津久光は、横浜鎖港は「不策」だと持論を主張し、春嶽・宗城もこれに同意しました。しかし、老中は「人心の折合方」を恐れる様子で、「一々御尤至極」だが「尚篤と考案の上御相談」したいと述べたため、結論は出ませんでした。(『続再夢紀事』) 「久光公覚書横浜鎖港一件」によれば、老中と久光のやりとりはこんな感じでした。
総裁職松平直克及び酒井老中は、「只成程々々」と言っていたそうです。 <ヒロ> 慶喜・春嶽・宗城・久光・容保の揃った1月2日の集会において、久光は、持論(横浜鎖港の中止、武備充実、鎖港交渉使節の派遣中止)を主張し、幕府の方針は「実之鎖港」ではなく、「当座の人気」に阿った「姑息之御処置」だと批判しました。これに対し、慶喜は、自分だけでは決めかねるので、老中にも申し立てるよう答えていました(こちら)。この日、久光が持論を述べたのは、そのときの慶喜の発言を受けたものになっています。 ○幕府が久光の開国説に服さない裏の事情 それにしても、久光が何をいっても、老中は「御尤至極」云々というだけで、言質は与えませんね。暖簾に腕押しとはこのこと? 横浜鎖港中止が難しい理由として、老中は「人心」や「諸藩」の「居合」を挙げています。この他、既に交渉使節がヨーロッパに向かったことも挙げられるでしょう。ですが、本音は開国論の幕府のことです、渡りに船と、久光の論に乗るわけにはいかなかったのでしょうか? 実は、そうはいかない、裏事情があったようです。 慶喜の後年の回顧談(『昔夢会筆記』)によれば、幕府は、将軍再上洛の前に、御前会議で、決して「薩州の開港説」には従うまい、と決めてきたというのです(前の上洛時には長州に迫られて破約攘夷を方針とし、今度は薩摩に従って開港になったのでは、幕府には「一貫の主義」がなく、いたずらに外様藩に翻弄される姿になる、というのが理由)。また、「国を開くという薩州の議論は誠に当然なんだ。しかるにその当然なのを、こっちは横に是非鎖港をやるのは甚だどうも。(鎖港を)真実やる積りなら、それはまた悪くともとにかくだが、前かたは長州のお陰で、こんな攘夷だの鎖港だのができた、今度はまたそれを止めるとなっては、ただ人に愚弄されるのだ。こういうところから、後はとにかく、まず聴いてはいかんといようなわけだ、どうもしかたがない」とも語っています。 ちなみに、慶喜自身は、久光の開港論に賛成だったものの、将軍とともに上京した老中が薩摩の説に従うなら辞職すると言い出し、将軍に確認すると将軍も老中と同意見だというので、幕府の鎖港論に変えたのだとそうです。従って、鎖港説に転じたのは「衷心」からではなく、その後、「江戸留守の板倉周防守に書通して、『いかなれば御上洛にかく愚かなる決議をなしたるや』と詰」ったそうです。これに対して板倉は、「己は一にもニにも薩州の説に雷同すべからずとはいいたれども、善きも悪しきも一切その説に耳を傾くべからずといえるにはあらず」と返答したそうです。 (3)長州処分 長州処分の大筋は決まりましたが、尋問項目や諸大名の出軍については決まりませんでした。(『伊達宗城在京日記』) 参考:『続再夢紀事』ニp394-395、『玉里島津家史料』ニp746、三p191、『伊達宗城在京日記』p324、『昔夢会筆記』p27(2010/3/23, 4/6) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3「横浜鎖港問題(1)」、同元治1「将軍への二度の宸翰」 「横浜鎖港問題(2)」「長州・七卿処分(2)」 (2010/3/23)ヒロ追記:以下は10年ちょっと前、サイトの初期にアップした文章になります。この日近藤が容保に呼び出されていた・・・という箇所が今のサイトと少し関連があるので残しました。(二条城の参豫と老中との会議には出席していない容保なのですが、近藤と面会する程度には元気があるようです。容保が近藤を呼び出したのは、前日の会津藩・新選組批判の高札(こちら)の内容の真偽を確かめるためだったかも?) 【京】文久4年2月2日(1864年3月9日)、武州日野の名主である富沢政恕が壬生の新選組屯所を訪問しました。旧友である近藤、山南、土方、井上、沖田を尋ねるためですが、近藤は会津候の召しにより不在。山南は病に臥して会わず、土方、井上、沖田の3名と話をしたそうです(「旅硯九重日記」)。 <ヒロ> 会津藩主が近藤を召し出した用件については手持ちの会津藩側の史料を見る限り記録がありません。 <参考>『新選組日誌上』(新人物往来社)所収の関連史料、『会津藩庁記録』、『会津松平家譜』、『京都守護職始末』(2000/3/9) |
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