2月の「幕末京都」 幕末京都日誌文久4/元治1 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久4(元治元)年1月2日(1864年2月9日)
【京】参豫集会:後見職邸で2日間隔の参内を内決/
久光、横浜鎖港・同使節中止と武備充実を主張。幕府の方針を姑息と批判。
容堂、参豫辞意を春嶽に伝える。

■参豫集会
【京】文久4年(元治元年)1月2日(1864年2月9日)、将軍後見職一橋慶喜の宿舎(東本願寺)に松平容保(会)、松平春嶽(前・越)、伊達宗城(前・宇)、島津久光(薩摩国父)が参集し、参豫の「勤務方」、横浜鎖港問題について話し合いました。(山内容堂は欠席)

会合には、薩摩藩小松帯刀・高崎猪太郎(五六)及び越前藩中根雪江も陪席しました。用向きは、参豫の「勤務方」、長州藩による幕府汽船長崎丸(薩摩借用中)砲撃事件、及び横浜鎖港問題でした。

◆参豫の「勤務方」
小松は、参豫の「勤務方」について、(1)近衛忠煕前関白は参豫諸侯が簾前の朝議(御前会議)に参豫することを考えており、中川宮(当時尹宮)は参豫諸侯に御下問の上で朝議に参豫させるとの意見であること、(2)朝廷の「衆義」は「御簾前の参豫ならでは折角諸侯を召し寄せられたる甲斐あらず」と近衛前関白の意見の採用することに決まったことを報告しました。

小松は、さらに、一同に対し、薩摩藩が朝廷に周旋するので参内の定日を内決してほしいと求めました。相談の結果、諸侯は二日間隔で参内することに決めました。(以上、『続再夢紀事』)

実際は、二日間隔の定日参内は実現しませんでした。御前会議が行われたのも数えるほどでした。

◆横浜鎖港問題(慶喜と久光の意見相違)
また、久光は、横浜鎖港問題について、持論(横浜鎖港の中止、武備充実、鎖港交渉使節の派遣中止)を主張しました。これは、去る10月19日に入京直後の春嶽との会見において述べたもので、春嶽の同意を得て、慶喜上京の際には共に申し入れることになっていました(こちら の注1)。また、幕府の方針は「実之鎖港」だとはいえず、「当座の人気」に阿った「姑息之御処置」だと批判しました。これについて、慶喜は、自分だけでは決めかねるので、老中にも申し立てるよう答えただけでした。(以上、『玉里島津家史料』)

「久光公覚書横浜鎖港一件」によれば、慶喜と久光のやりとりはこんな感じでした。
(横浜鎖港の中止、武備充実、鎖港交渉使節の派遣中止という久光の意見は)「至極尤」である。しかし、池田(注:鎖港交渉使節)も最早出帆しており、今から呼び返すことも難しい。「殊ニ諸藩之人心鎖港不相成候而は不居合候間」、今は、まずその通り(=横浜鎖港)とすべきである。
では、いよいよ鎖港を行う「御見留」でございますか?
別段見留はない。仏人が、鎖港を達した上は、長崎・箱館への引移料が払われれば、行われるだろうと申したということもある。
その引移料はいかほどにございますか?
何百万両になるだろうか。
これは「無益之至」だと存じます。その大金をもって、「皇国惣海岸防御之費用(皇国の全ての海岸の防御の費用)」となされれば、防御は「近年中充実ニ至」ることでしょう。それをせずに鎖港にお出しするのは「甚御失策」でございます。
「如何ニも尤之義」である。しかし、最早使節を出したからには、今から取りやめることは難しい。
使節は長崎に滞留していますので、このことをお伝えになるべきです。また、中国に船が滞留しておりますので、そちらにもお伝えになるべきです。西洋との談判が整わなければ、どうなるでしょうか。実に「御国辱無申計事」ではないでしょうか。
今から差し止めを伝えても、間に合いかねるだろう。また、談判が整う、整わないは、今から論じなくてもよいだろう。西洋各国へ参ることゆえ、帰国までは三、四年かかるだろうから、そのときになれば、「人心之居合」がついているのではないか。
そのような「姑息の御趣意」では、「愈不可然」だと存じます。「天下之御政事ニ当座当座之御処置」とは、別て恐れいります。また、横浜一港に限り閉鎖して、長崎・箱館は当分そのままということでは、鎖港の詮がないでありましょう。
横浜は江戸近辺で、これまで殺害も多い。長崎・箱館は遠国であり、殺害も少ないので、それでよかろう。
長崎・箱館は今後どうなされるのでしょうか?
「永久開港」である。
なにぶん、横浜だけ鎖港で、外は永久開港と申すのでは、「実之鎖港」とも申しがたく、ただ、「当座之人気」を以ての「姑息之御処置」で、幾重にも嘆息の至りだと存じます。
自分だけではなんとも決めかねるので、閣老へも右の趣意を申し立てるとよい。
そのようにいたします。
(お願い:素人の管理人による口語訳なので、絶対に資料として使わないでくださいね)

久光は、「右之件々越前・宇和島は同意ニ候」と記しています。容保は幕府の方針に随っており、久光の意見には不同意だったということでしょうか・・・。

◆長州藩の幕府汽船長崎丸砲撃事件
席上、小松は、文久3年12月24日に起きた長州藩による幕府汽船長崎丸(薩摩藩が借用中)砲撃事件(こちら)について、(1)前日に一命を取り留めた者が京都にたどりいたこと、(2)その者からj事情をきいた薩摩藩士が「激昂」して京都の長州藩邸を焼き払うべきだとまで主張していること、しかし(3)藩庁では「和戦」ともに長州の事情を問いただしてから決定すべきだとの意見で、まず使者を派遣することになったことを報告しました。これに対して、慶喜は「長の罪は今後取糾す時機あるべければ今日に於て些細の事を聞くは宜しからず」と慰撫したそうです。その後、「衆議」によって、薩摩藩の使者派遣は一時見合わせることになりました。

なお、同日、薩摩藩・長州藩双方が「其筋」に事件を報告しています。長州藩の書面には、長崎丸を外国船と誤って攻撃したとの旨が書かれています。しかし、薩摩藩の書面では、事前の「條約」通り、夜間には帆柱毎に灯篭を掛けて「国印」とし、さらに念のため、灯篭を差し出していた程であるのに「如何様異船とも見違候哉」と外国船と間違われたことに疑問を呈しています。

(以上、『続再夢紀事』)

<ヒロ>
久光はかなりズバズバいっていますね。ところで、横浜鎖港問題に関する文久3年10月19日と文久4年1月2日の久光の主張(と春嶽・慶喜のやりとり)は、越前藩の記録である『続再夢紀事』にはのっていません。不思議な気がします。この後、春嶽は宗城とともに横浜鎖港交渉使節の派遣中止を強く求めて慶喜と対立することになりますので、この時点での春嶽の反応も記録として残っていれば興味深いものになったのですが・・・。(どこかにあるのでしょうか?)

◆山内容堂の辞意
この日、後見職邸での会合を欠席した容堂は、春嶽に書簡を遣わし、<参豫のことは・・・表向きはお請けしたが、近日中にお断り申し上げるつもりだ>と伝えました。署名は「酒泉病叟」でした。

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」■守護職日誌文久3 ■越前藩日誌文久3薩摩藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『続再夢紀事』ニp321-326(2007.12.10)、「久光公覚書横浜鎖港一件」『玉里島津家史料』三p189-190(2007.12.12、2010.4.16)

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