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文久4年2月3日(1864年3月10日)
【京】一橋家家士平岡円四郎、慶喜と老中の仲について
(1)宸翰の趣旨、(2)横浜鎖港、(3)長州処分について同論であり、
懸念はないと越前藩士中根雪江らに述べる。
また、「越」は「薩の「奸計」に惑わされているとの投書があったと伝える。
【長】長州東上:藩主敬親父子、家老宍戸備前・福原越後とともに三条実美訪問。

★京都のお天気:陰 (久光の日記より)

幕閣と慶喜の仲
京】文久4年2月3日(1864.3.10)、越前藩士中根雪江・酒井十之丞は、幕府の諸有司中に慶喜と老中の間を「離間」させようとする者があるとの風聞を、一橋家家士平岡円四郎に伝えて注意を促しました。これに対し、平岡は宸翰の趣旨・横浜鎖港・長州処分について、慶喜と老中は「同論」であり、懸念はないと返答しました。

平岡は、その他、(1)薩摩藩の「奸計」に越前藩が「惑わされ」ており、慶喜が両者の言い分を聞けば天誅は免れないとの投書が二度あったこと、(2)幕府にとっては越前藩に退京させるのが「上策」である、また総裁職は害があるので除くべき、等、種々の議論があるらしい、と話しました。

話の概要は以下の通り。
中根
酒井
近来、諸有司中に一橋公と閣老中との間を離間せんと欲する輩が頗る多いという。今にして注意されなくては「不測の難事」を醸成するだろう。
平岡 今は(慶喜と老中は)大いに折り合える方だと存じている。

特に今後は過日御下付のあった勅書の趣旨に基づき「大計を建」てられる筈だが、趣旨に基づくことは橋公にも閣老にも聊かも異見がない。また、今朝諸有司に勅書を拝見させる筈だが、諸有司とても異見のあるわけはなく、離間すべき要はない。万一、離間させようとする輩があっても、乗ずべき虚隙がないだろう。

また、外交(=横浜鎖港)の件は、「諸藩の翼望」といい、「関東の人士の情状」といい、今さら「開」の方に改めては「忽ち紛議を起すべき勢」なので、「人心鎮定の為」、やはり「鎖」の方に据え置いて、その旨を公布し、欧州に派遣した使節の帰国を待って「開」とも「鎖」とも適宜定められる筈である。長州処分については、兼ねてご承知の通りである。これらの件についても橋府と閣老とは「素より同論」なので、決して、この上「嫌疑」などを生ずべき懸念はない。

***
最近、「薩は恐るべき奸計を包蔵し、越はこれに惑わされ居るものなり。橋府にして万一薩越の言を納れられなば終に天誅を免れらるばじ」との趣意を書き綴り、二度まで投書した者がいる。

また、ある説に、「方今廟堂の為には越をして京地去らしむるが上策なり。さてこれを去らしむるには其言う所を納れられざるにあり。其言う所納れられずして数月を経過すれば君臣とも憤怒すべく、国幣も亦疲弊すべければ必ず帰国すべし」といい、別の説には「川越の総裁職は時事に益のみならず、却て害あり。速かに除き去るべし」などとりどりに議論する者もあるように聞く。

参考:『続再夢紀事』ニp395-396(2010/3/24)

<慶喜VS直克/幕閣 おさらい>
これより前、慶喜は、幕府が将軍上洛時に幕権回復を企図しているとみて、春嶽に善後策を相談しており(こちら)、その結果を受けてさらに中川宮・春嶽・伊達宗城が協議した結果、直克が上京した際には中川宮邸に呼び出し、幕府の旧習への回復は許されないと諭す手はずになっていました(こちら)

しかし、1月15日(16日説あり)に二条城に登城した慶喜は、直克・老中の変化を感じ取り(こちら)、同月16日、春嶽に対し、中川宮にもはや厳督に及ばない旨を伝えるよう依頼しました(こちら)。翌17日には中川宮と直克の会見が予定されていました。17日朝、春嶽は中川宮のもとへ藩士中根雪江を遣わし、過日総裁職松平直克に「厳督」を願い出ていた件につき、直克は着京後「大に了解の模様」であるので厳督には及ばないことを伝えるとともに、直克参候の際には「御愛憐の御旨趣」をもって「垂諭」あるよう願わせました(こちら)。一方、同じ日、直克は京都守護職松平容保を訪ね、幕府が服制を復旧したことで後見職一橋慶喜が不満をもっている件について、取り成しをしてくれるよう相談をしましたが、容保はそれには春嶽が適任だろうと答えました(こちら)。18日、直克は老中有馬道純とともに、慶喜を訪れ、幕府が服制を復旧した委細の事情を説明しましたが、議論の結果、将軍滞京中に二条城に登城する際は旅装を用いることを評決し、大目付が関係者に通達することになりました(こちら)(服制復旧の停止)。

ところが、その後も慶喜と直克始め幕府要路の間はしっくりいかず(幕閣側は慶喜の独断で物事を進めるのに不信感をいだいたようです)、1月23日には両者の疎隔を憂えた春嶽が藩士中根雪江・酒井雪之丞を直克の宿舎に派遣し、融和を周旋させようとし(こちら)、同26日には、春嶽の使いで一橋家を訪れた中根が、慶喜と総裁職松平直克らとの「御間柄の云々」について内談をしていました(こちら)。

■参豫の動き

【京】文久4年2月3日(1864年3月10日)、松平春嶽は、前日の二条城会議に参加しなかった(呼ばれなかった)山内容堂に、1月27日の宸翰の布告が決まったことを知らせました。

<ヒロ>
容堂からの要件が特にない書簡への返信として認められた書簡ですが、二条城で会議があったことには触れず、「近日幕より布告可相成候」とさらっと知らせています。

参考:『続再夢紀事』ニp396(2010/3/24)
関連:■テーマ別元治1「慶喜vs幕閣」「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

■長州東上
【長】文久4年2月3日(1864年3月10日)、長州藩主毛利敬親(当時慶親)父子が家老宍戸備前・福原越後とともに湯田の三条実美を訪問し、東上について話し合いました。また、長州藩は藩士寺島忠三郎に上京を命じました。

参考:『維新史料綱要』五(2010/3/24)

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