3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別幕末日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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★京都のお天気:快晴(久光の日記より) ■参豫の動き 【京】文久4年2月1日(1864年3月8日)、一橋慶喜は、前日(1月29日)付松平春嶽書簡(こちら)への返信において、春嶽の提案した会津藩賞揚・容堂抜きの参豫集会に賛意を示す一方、参豫の御用部屋入りは困難であると伝えました。
<ヒロ> ●参豫の御用部屋入り(おさらい) 将軍入京の翌16日、幕府は、春嶽に将軍の諮問に応えるため随時登城を命じました(こちら) 孝明天皇は、 1月21日に将軍に下した宸翰(内諭)にて、参豫諸候(容保・春嶽・容堂・宗城・久光)の具体名を挙げ、彼らと協力するようと命じていました(こちら)。内諭が下された翌22日、将軍は宗城・久光に宸翰を示して協力を依頼しました(こちら)。その後、参豫諸候は二条城に呼ばれて幕閣と協議するようになりましたが(二条城会議)、幕府の最高意思決定機関である御用部屋入りを命じられたのは春嶽(=親藩の越前藩前藩主&前政事総裁職)だけでした(こちら)。他の参豫諸侯(宗城・容堂・久光。いずれも外様の前藩主あるいは現藩主父)は、幕府に召還されたときのみの登城で、しかも幕閣らと意見を交換する機会はあっても、御用部屋での幕府の意思決定に参加することはできません。 1月27日、天皇は、将軍に宸翰(詔書)を下した後、将軍との酒肴の席に総裁職・老中を召し出して、参豫諸侯と協力して議論し、「皇運挽回」に尽力するよう命じました(こちら)。翌28日、老中は、春嶽に対し、朝廷が参豫を置くことは「公平の御処置」ではないと廃止論を述べましたが、春嶽は、逆に参豫は「諸侯の巨壁」とも言うべき者なので、この際「参豫を廃して幕府の参謀に加」えれば、「真に公平」に至るだろう、と参豫の幕政参加を提案しました。同夜、一橋邸に集まったさ春嶽らは参豫の御用部屋入り(幕政参加)について話し合い(こちら)、翌29日、春嶽は慶喜への書簡中、状況を問い合わせていました(こちら)。 この日の春嶽への返信中、慶喜は、御用部屋入りについて、自分は賛成だが、「聊意味合」があって実現が難しく、代わりに自分の詰所まで通すことになった、と告げています。「聊意味合」とは、幕閣の反対を指すものと思われます。幕府は天皇から将軍に下された命令を無視できませんが、旧来のやり方からすれば、外様を幕議に参加させる(=御用部屋入りさせる)ことはもってのほかです。それでなくても、宸翰中に参豫諸侯の具体名があったことで、幕府の有司の中には彼らに対する疑念も生まれていました。さらに、朝議参豫が御用部屋の一員になれば、朝議・幕議の双方に参加する彼らに、政治的主導権をとられかねません。幕府にとってみれば、二条城で参豫諸候との会議を設定するだけでも、非常な譲歩であり、彼らの御用部屋入りなど、とんでもないという認識だったのはないでしょうか。 参考:『続再夢紀事』ニp386-390、『玉里島津家史料』ニp746、『維新史料綱要』五、『徳川幕府事典』(2010/3/19) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「将軍への二度の宸翰」 「参豫の幕政参加問題」「会津藩の賞揚」 ■参豫の御用部屋入り・長州処分・攘夷鎖港に関する幕議 【京】同日、薩摩藩士高崎猪太郎が将軍後見職(&参豫)一橋慶喜を訪ね、(1)参豫の御用部屋入り、(2)長州処分、(3)攘夷鎖港の三事に関する幕議はどうなのか尋ねました。これに対し、慶喜は、(1)参豫の御用部屋入り(=幕政参加)は困難、(2)藩主父子の隠居・違背すれば征討、(3)横浜鎖港だと返答しました(下表参照)。
なお、この後、高崎(猪)は越前藩邸を訪ね、応対した中根に<何事にあっても幕議が「因循」であることに驚き入り、実に「憂憤」に耐えない>と述べ、<参豫の方々から今一際「厳談」に及ばれてはいかがか>と提案しました。これに対し、中根は、<もっともだが、現状を鑑みると、参豫の方々は幕議に与ることを求め、幕府はこれを力めて拒むというように、双方とも失体が甚だしい。こうなれば、主客その位置を換える目的で、暫く周旋の手を引き、幕府のする所を黙視してはどうだろう>と意見しました。高崎(猪)は妙案だと同意し、その後の春嶽との面談でその案を述べたそうです。春嶽は、明2日に島津久光・伊達宗城とともに一橋慶喜を訪ねて論じることにし、久光・宗城に通知するよう依頼しています。 <ヒロ> 高崎(猪)は文久4年1月の両度の宸翰の起草者だもといわれています(『徳川慶喜公伝』史料編ニp38)。薩摩藩の誰かの起草であることは間違いないので、いずれにせよ、幕議が薩摩藩の思惑どおり進んでいるかどうかを探りにいったのだと思われます。 参考:『続再夢紀事』ニp390-391(2010/3/20) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫の幕政参加問題」「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■横浜鎖港問題/1月27日宸翰への違和感 【京】同日、二条城において、一橋慶喜は松平春嶽に対して、1月27日の宸翰(勅諭)の文中に「開港の意味を含蓄せるものの如し」であると話しました。 この日、春嶽は、慶喜及び老中水野忠精から呼び出されて二条城に登城し、慶喜から(1)宸翰(1月27日)の諸侯への布告、(2)横浜鎖港の奏上(朝廷への報告)と布告について意見を聞かれました。その折にでてきた言葉です。 上記2点に関する慶喜の意見とそれに対する春嶽の返答は下表にまとめるとおり。
春嶽が、これらのことより、宸翰の勅旨を奉じて、(1)摂海防御策を立て、(2)長州処置を一定することが急務であると述べ、慶喜の意見を質しました。慶喜はもっともだと同意し、総裁職松平直克や老中とともにその件を論じましたが、一決に至らなかったため、翌2日に参豫諸侯を集めて再議することになりました。 <ヒロ> 幕府だって本音は開国なのですが、孝明天皇の攘夷への強い意志を慮って横浜鎖港を方針とし、既に外国に鎖港交渉使節まで派遣してしまってます。今さら引き返すことは困難です。しかし、諸藩には横浜一港の鎖港にすら反対し、三港全面鎖港を主張するものもいます。さっさと朝廷から横浜一港の鎖港に関するお墨付きをもらって、反対派を抑えたい・・・という気持ちがうかがえる気がしますよネ。 ●宸翰への違和感 ○「開港の意味を含」む部分 慶喜のいう「開港の意味を含蓄せるものの如し」は、具体的には、1月27日の宸翰(こちら)の文中の、攘夷強行への戒め(「妄りに膺懲の典を挙んとせは却て国家不足の禍に陥らんことを恐る」)、三条実実らが主導した攘夷令・それに呼応した長州藩の砲撃に対する強い批判(「(三条実実らが)朕が命を矯めて軽率の攘夷の令を布告し」や「(長州藩の)暴臣のごとき・・・故なきに夷船を砲撃し」)、外国に比しての日本の武備の不十分さ(「我が所謂砲艦は・・・国威を海外に顕すに足らず却て洋夷の軽侮を受けんか」)などを指すのではないかと思います。同月21日の宸翰(内諭)(こちら)にも、「無謀の征夷」は「好」まない、議して「一定不抜の国是」を定めよ・・・という部分がありますから、二つの宸翰を併せた感想なのだと思います。(開国説の薩摩藩が起草した宸翰ですからから、当然といえば当然なのですが、実は、文久3年11月に久光に下した密勅21条(こちら)において、孝明天皇は、「武備不充実」の「無理之戦争」は「真実皇国之為」ではないとし、今後は、「真実之策略」をもって「安慮之攘夷」を行うこと求めています。薩摩藩の草稿は、天皇の意向にそう外れたものではないといえると思います)。 ○違和感の背景 幕府(&慶喜)は本音は開国論です。しかし、文久3年の禁門の政変(8.18の政変)政変後も、天皇の破約攘夷の意思は変わらず、翌19日には幕府には「迅速可奉攘夷之成功、厳重御沙汰之事」、諸侯には「不待幕府の示命、遂に可有掃攘之由、叡慮被仰下候事」と攘夷督促の沙汰を出しています(こちら)。 また、幕府に攘夷を促す親王別勅使派遣の計画も進んでいました。そういうわけで、違勅を恐れた幕府は、破約攘夷を国是とする方針は変えられませんでした。しかし、長崎・箱館・横浜の三港全部の閉鎖は到底無理なので、せめて横浜一港は鎖港に向けて努力することを方策としており(こちら)、9月には各国公使との交渉を開始しました。幕府は交渉開始を容保から朝廷に報告させており(こちら)、朝廷ではこれを受けて、10月に、諸藩に対して攘夷は幕府の指揮を受けるよう通達しています(こちら)。12月には鎖港交渉使節もヨーロッパに向けて出立しました。そもそも、慶喜が上京を命じられたのも、朝廷が横浜鎖港交渉の経過を聞きたいという理由からでした(こちら)。将軍に上洛が命じられたのも同じ理由です(こちら)。ですから、将軍への宸翰の内容が、迅速な鎖港攘夷を明確に命じるものであったら、ある意味腑に落ちたはずです。でも、このたびの宸翰では、破約攘夷を督促をしていた以前の沙汰から比べると、その点が明らかにトーンダウンしているようにみえます。違和感を覚えても致し方ないように思えます。 ○違和感の結果・・・ その後、慶喜は、宸翰が出された経緯を調べ始め、二度の宸翰が薩摩藩によって起草されて、密かに朝廷に提出されたものであることを探り当てています。しかも、夜中に差し出したものを翌朝には下すよう願い出ていたため、天皇らは「染め染め御覧不被遊」であった(つまりよく検討する時間がなかった)こともつきとめたといいます。(←元治元年二月十八日付美濃部又五郎・野村彜之介(つねのすけ)宛原市之進(在京水戸藩士)書簡において、慶喜が市之進に伝えたと書かれている話)。なお 市之進書簡では、薩摩藩士高崎猪太郎が中川宮邸に持参したことになっていますが、久光の日記によれば、最初の宸翰草稿提出は1月7日で、久光自身で中川宮・前関白に持参したと書かれています。(二度目は記述なし)。←後日の「今日」で詳しくフォローします。これが、さらに参豫解体へとつながっていくのです・・・。 参考:『続再夢紀事』ニp390-391、『徳川慶喜公伝』史料偏ニp38-45、『玉里島津家史料』三p111(2010/3/20, 4/6) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3「横浜鎖港問題(1)」、同元治1「将軍への二度の宸翰」 「横浜鎖港問題(2)」 【京】同日、将軍家茂は慶喜・春嶽を召し出して酒肴を振舞い、品物を与えました。さらに京都所司代稲葉正邦を召し出し、品物を与えました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/3/20) ■長州東上 【長州】同日、三条実美は土方久元・清岡半四郎と東上を謀議しました。また、長州藩主毛利敬親は遊撃隊士を召し出し、義憤を忍び、時機を待つよう諭しました。藩庁は亡命を禁止しました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/3/20) ■その他の出来事 【長州】藩主毛利敬親、遊撃隊士に時機を待つよう諭す/亡命を禁じる/ 【長崎】薩摩藩、長崎で英国蒸気船ニ艘購入/ 参考:『維新史料綱要』五(2010/3/20) ☆以下はおまけです。10年ちょっと前、サイトの初期にアップした文章になります。今のサイトとはちょっと不似合いですが、思い出として残しておきマス(2010/3/20) 【京】文久4年2月1日(1864年3月8日)、四条大橋東詰に、会津藩ならびに新選組を批判する高札が建てられました。 「最近会津家臣や幕新徴士と自称する根元は無頼の者ども(=新選組)がときどき市中の金持ち宅に押しかけ、憂国正義之士と名乗って、無体にも金銭の無心を申しかけ、容易にさしださないときは抜き身をもって脅し、夜中の道路ではゆえなく人を斬り衣服を強奪する、その身は惰弱だがぜいたくを極めている。それだけではなく、遊郭や料亭でも非道な行いが多々ある・・・」(『甲子雑録』)。 <ヒロ> 尊攘激派浪士による高札でしょうから、どこまでが真実かは無論不明ですが、新選組という名が浪士達にはまだ周知していないことがわかります。会津藩士はとんだとばっちりというところでしょうか。 ちなみに、新選組ものでは、一般に暴力的で無法を働く中心という悪役イメージの強い芹沢鴨の暗殺からはすでに5ヶ月以上たっています。 ところで、『新選組日誌』のこの件での解説には「・・・(粗暴だった)芹沢を排し、真に王城京都での攘夷集団としての道をまい進しようとしていた近藤勇らにとって、この高札文を読んだときの憤怒はいかばかりだったことだろうか」とあります。まるで芹沢だけが非道を働き、近藤らは清廉潔白だったといわんばかりですね。でも、実は他の史料にも芹沢死後の新選組の無法ぶりを告げるものが散見されるのです。 芹沢の乱暴ぶりの記述の多くは永倉の『顛末記』によるものですが、永倉はその後の新選組の乱暴ぶりには口を閉ざしています。芹沢の乱暴行為についてもよくよく読めば、その場に近藤派もいたことが多いのです。新選組の悪行はすべて芹沢に押し付け、自分たちを正当化しようという意図が明らかだと思うのですが・・・。史料(しかも『顛末記』は史料ですらなく史料風読みもの)をすべて額面通り受け取るのは気をつけたいものだと思います。新選組本では、このように、近藤・土方を美化・正当化するための、都合悪い史料の無視、論理性や史料的裏づけのない解説がよくみられるので要注意ですよ〜。 参考:『甲子雑録』・『新選組日誌上』・『新選組史料集コンパクト版』(2000.3.8) |
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