3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久3年2月4日(1863年3月22日)
【京】政事総裁職松平春嶽入京
【京】松平容保、近衛前関白に言路洞開を建白
【江】浪士組結成:松平主税助、浪士取扱役を辞任

■総裁職の先発上京
【京】文久3年2月4日、政事総裁職松平春嶽が入京し、二条堀河の藩邸に入りました

春嶽は東本願寺に後見職一橋慶喜を訪ね、その後、関白鷹司輔熙を訪問しました。(慶喜と共に鷹司を訪問する予定でしたが、慶喜は前日夕方以来の感冒で頭痛がして遠慮したそうです)。

春嶽 叡慮をもって重任をおおせ出されて以来、勉励して片時も早く宸襟を安んじたい心得ですが、多年閉居していましたので、特に国家多事の際、菲才その任に堪えることができず、恐縮です
鷹司
関白
拙者も久しく閑居していたところ、はからずも今般大任を蒙り、同様に恐縮している。三ヶ月だけの奉職のつもりでお請けしたのだが、攘夷のご命令もあることで、別して公武一和でなくては行届くまい。よって追々御相談に及ぶつもりである
春嶽 今般急に状況したのは大樹公(将軍)の官位一等を辞された上表に対してこのほどお聞き届けになる旨をおおせだされたので、その恩命に対するお礼、そのほか色々申上げることがあるからですが、これ等のことは、一橋中納言と共に参殿して申上げましょう

<ヒロ>
春嶽は、将軍に先発して、1月22日に江戸を発ち、勝麟太郎(海舟)の指揮する軍艦で海路上京しました。公武合体派の有力者としては、既に、守護職松平容保(文久2年12月24日着)、後見職一橋慶喜(文久3年1月5日着)、前土佐藩主山内容堂(同年1月25日着)が入京していました。

春嶽が将軍に先発して上京したのは、将軍上洛前に、公武合体派連合策(有志諸侯・公卿の衆議による公武一致の国是決定(→大開国))を、慶喜や容堂らとともに周旋するためですが、その立案者である横井小楠は同行できませんでした。前年末の暗殺未遂事件の際の対処が「士道忘却」だとして肥後藩の非難を受け、春嶽の取成しで厳罰は免れたものの、身柄は越前藩預かりとなって福井に帰されてしまったからです。ザンネン・・・。

それにしても、この頃、容保も暫く風邪で伏せっていますが、慶喜も前日(3日)夕方から・・・実は、春嶽も3日来、風邪をひいていたようです。京都の幕府要人の間は風邪が大流行^^;。

ん・・・前日夕方からということは・・・慶喜の頭痛の原因って、もしや、煩しさを増やすだけの(@『京都守護職始末』)容保の言路洞開の建白だったりして・・・。布令の草案には「攘夷御一決の此節」なんて言葉もあったし・・・。(ほんの冗談ですぅ)。

<参考>『続再夢紀事』一(2004.3.22)
関連■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
■浪士対策
【京】文久3年2月4日、会津藩は浪士対策として前関白の近衛忠照に言路洞開(下から上への言路を開くこと)を建白しました

○言路洞開をめぐる会津藩の動き
容保は、池内大学や賀川肇の天誅など騒擾が日々つのるのは、言語が閉塞し、下情が上に通じないせいであり、言路を開くよう布令することが必要だと考えていました。3日に慶喜の同意を取り付けると、さっそく近衛忠煕前関白に言路洞開を建白すると好返事を得ました。 (関連:「幕末資料集:言路洞開に関する容保の建白書」)

そこで、さっそく、所司代を通して布令しようとしたところ、所司代牧野忠恭は、<老中の命なら実行するのは当然だが守護職の命はそうではない>としてこれを拒絶ました。そこで、町奉行を通して京都守護職の命令を市中に布告させました。(町ぶれは8日説もあり)

<攘夷が御一決となった当節、御改革をお命じになったので、旧弊を一新して人心が協和するようでなくてはならないが、簾轂の下で、私の殺害などの事件がある。つまるところ言路が閉塞し、諸役人の不行き届きの処置の結果である。ついては上下の情意を貫徹いたし、皇国の得失にも関わることは、もちろん内外大小事の関係なく、善であれ悪であれ隠匿していたことをいささかの遠慮もなくその筋に、早々に申し出ること。

ただし、忌諱をはばかる件については、封書にて直接差し出せば、守護職自身が聞き届けることもあろう。>(口語訳by管理人)

<ヒロ>
○守護職と所司代の対立
京都所司代が布令を拒否した理由として、会津側資料では浪士を怖れて逡巡したと推測されています。しかし、管理人は、実際のところは、守護職と所司代の指揮系統が明確にされていなかったことが大きな原因だったのではと思います。

そもそも、所司代人事を守護職就任の条件としていた会津藩(容保)ですから、牧野忠恭の所司代就任にも当然同意していたはずで、容保としては与しやすい相手だとみていたと思うのですが、とんだところで、関係のぎくしゃくしたところが表面化してしまったような気がします。ちなみに幕命により、所司代が守護職の指揮下に入ったのは、この年の7月のことでした。(参照:「守護職通史」「守護職の方針」

関連■テーマ別「浪士対策」「攘夷期限
<参考>『七年史一』・『京都守護職始末1』・『徳川慶喜公伝2』(2001.3.22)

【江】文久3年2月4日、浪士組取扱松平主税助が辞任しました

<ヒロ>
この間からちょくちょく引用している俣野時中の史談会速記録によれば、主税助の辞任理由は金策がらみです。幕府は、当初、浪士を50人集めて一人に50両与えるつもりだったのが、浪士募集に回った石坂らが地方の土豪から一時的に金を借用してきた、それを返してくれと迫られたものの、幕府は元々の準備金(合計2,500両)以上出すつもりはない、それで進退極まって、いわば役目を放り出したというのです。取扱役なしのまま集った浪士は235人。困った幕府は隠居していた鵜殿鳩翁を後任に任命したといいます・・・。

小説などで採用されることの多い話だと思いますが、明らかな事実誤認が一つあります。鵜殿鳩翁が浪士取扱に任命されたのは文久2年12月24日のことで、主税助の辞任を受けた幕府が慌てて任命したのではないのです。

その上、俣野のいう50両(文久3年にはお米が20石買えました!)ですが、諸解説本でよく引用されている勝海舟宛坂本龍馬書簡では、浪士へは二人扶持・金十両となっていて、、常識的に同時代史料のこちらの方が正確だとされています。まぁ、そういうわけで、お金が理由で辞めたという話もどこまで本当かよくわかりません。

お金でみる浪士組

さて、龍馬書簡の二人扶持・金十両を、幕府の職制で俸禄がこれに近いものはないかと探してみたところ、江戸町奉行同心が三十俵二人扶持でした。文久3年時の金十両=(年間約3.55石相当=約8.8俵)なので同心の三十俵にはちょっと及びませんが、扶持からみると、幕府にとっての浪士は、まぁ、同心並の存在だったとみてよいのではないでしょうか??

関連:■「豆知識」「幕末の金1両の価値(1両で買える米の量/現在のお金にすると?)」■清河/浪士組日誌文久3(@衛士館)

参考:『江戸幕府役職集成』(2004.4.1)

前へ   次へ


3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ