3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久3年2月3日(1863年3月21日)
【京】浪士対策:松平容保、一橋慶喜から言路洞開布令の承諾を得る

■浪士対策
【京文久3年2月3日、松平容保は一橋慶喜に過激化する浪士の対策として、言路洞開(下から上への言路を開くこと)を再び入説し、ようやくその承諾を得ました。

○浪士対策としての言路洞開をめぐる会津藩の動き

容保は、上京以来、浪士が国事御用掛の尊攘公卿に過激な入説をし、公卿も好んで浪士の言葉を信ずる状況を見て、これは下情が上に通じないせいであり、言路を開くよう布令することが必要だと思っていました。そこで、1月21日に、将軍後見職の一橋慶喜に提言したところ、慶喜は、言路洞開を機に浪士の私見が轟々となることを憂えて容保の意見を用いませんでした。(こちら

しかし、その後、池内大学・賀川肇と激派による「天誅」が相次ぎ、容保はいよいよもって言路洞開が急務だと考えたのでした。この日、病床にあった容保は慶喜に書簡を送っています。

「近来何となく世上騒々敷、既に前夜(=1月24日)は両議奏(=正親町三条実愛と中山忠能に暗殺された池内大学の耳とともに脅迫状が投じられた件:こちら)、一昨夜(2月1日)は千種岩倉へ奇怪の所行致し候哉の由(=暗殺された賀川肇の手と脅迫状が投じられた一件)、風聞之有り、その上貴所様御旅館へも如何の所行に及候事の由(=賀川肇の首とともに攘夷決定を迫る書簡が置かれた一件:こちら)、高貴の御方を軽侮し、言語道断の至り、輦穀の下取締り申さず候ては、私職掌相立ち難き場合に相成り候處、畢竟、言語が逼塞し、下情が貫通いたさざる所より起り候事と存じ奉り候間、別紙の通り建白仕り候積りに御座候間(幕末資料集:言路洞開に関する容保の建白書)、先日伺置き候触出し(=布令)の義、御案じ事もあらせられ候處、今と相成り候ては、右の義出候外、御座無き儀と存じ奉り候 (後略)」

慶喜も、今回は「然らば段々御見込みの處、至極御尤もに存じ奉り候へば、御覆蔵なく御取計い之有り候様仕りたく候。御別紙の趣も至極の御儀、意存(=異存)等更に之無く、万端宜しき様御取計い御座候様」と返事をしたそうです。

ちなみに『京都守護職始末』では、慶喜は<これ以上煩雑を加えるのは迷惑至極、ただし貴方一人でおやりになって他に累を及ぼさないのならば御勝手に>と突き放した返事をしたように書かれています。会津側は慶喜の本心をそう読み取ったということでしょか^^;。(会津は幕閣だけでなく、慶喜との関係もいまいちなのです^^;)

関連■テーマ別文久3「浪士対策」「攘夷期限
参考>『七年史』一(2004.3.22)

■生麦事件償金
【京】文久3年2月3日(1863年3月21日)、英国軍艦が横浜に入港しました。

同月12日までに合計8隻の艦隊が入港しました。(もちろん、生麦事件の償金交渉にプレッシャーをかけるためでしょう・・・)。

関連:■テーマ別文久3「生麦事件償金問題」 ■開国開城:幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京
参考>『徳川慶喜公伝2』(2004.3.22)

前へ    次へ
3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ