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文久3年2月11日(1863年3月29日)
【京】攘夷期限:後見職一橋慶喜、朝廷に将軍滞京10日、帰府後20日以内の攘夷期限を約束
【京】浪士対策:守護職会津藩兵、夜間の見回りを始める。

■攘夷期限
【京】文久3年2月11日、勅使8名が後見職一橋慶喜の宿舎を訪問し、攘夷期限決定を迫りました慶喜・春嶽・容保・容堂が応対し、慶喜らは、将軍滞京は10日限りで攘夷は将軍帰府後20日以内の見込と上答しました。(春嶽は攘夷期限設定に反対しました)

上答書
将軍歸府後、二十日の御宥免を蒙り、相違無く拒絶致させ候段、御受申上候。滞京之儀は十日限り 朝廷より仰せ出さるべき御都合之事
(参考:『続再夢紀事』一p372。書き下しby管理人)

晩年の慶喜自身の回想では、尊攘急進派は幕府の重職や将軍の上洛により公武合体派が勢力をのばすのを恐れ、この際攘夷期限を設定させ、将軍が上洛したときには攘夷決行しかない状況にしようと企てたのだとされています。

<この日の動き>

この日の朝、久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟武兵衛の3人が鷹司関白に面会して、(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開、(3)人材登用、の三策を建議し、「今日中に決めよ。決まるまでは退かない」と迫りました。許容しなければ切腹して丹誠を示すと言ったともいいます(『七年史』)。

建議書のポイントは以下の通り。
先般、勅諚をもって攘夷を仰せ出され、関東も御請け申し上げたが、期限等の奏聞もなく、「天下之人心騒擾」し、「如何躰之変動」が出来するか計りがたい。万一大樹公の御上京が御延引になれば、後見・総裁職をもって速やかに期限を奏聞せよと命じられたい。
「未曾有之大寇を騒擾し、皇威を海外に御輝」かされるため、既に「非常之宸断を以て御親征をも思召」されるほどの御時勢である。恐れながら、これまでのように深く宮中におられ、「君臣之間」が「隔絶」してはならない。「言路洞開」し、「」なく、御近習は勿論堂上の御方を時々御前へ召出され、「胸憶」を尽くされるようありたい。
国事御用掛を多数命じられたが、人数を減らして「御人材御精選」になり、「日々列藩之情實圀家之大計等」を(精選された人材から)御聞きになるべきである。また、諸大名も追々参内し、天盃頂戴を仰せつかる程である。その「御破格」をもって、直に赤心をお聞届けありたい。
(参考:『続再夢紀事』一p372-372より作成)

さらに、午後には13名の急進派公卿が鷹司邸に群参して、ただちに久坂らの建白を天皇に報告せよと圧力を加えました。こうして三策は天皇に奏上され、騒ぎになることを怖れた天皇によって、御前会議で勅許されました。朝廷は、(1)の攘夷期限決定について、ただちに三条実美らを勅使として慶喜の宿舎に派遣し、「期限を早々に答えるように」との命を下しました。(三策の(2)言路洞開、及び(3)人材登用に関しては、国事参政・寄人の設置や学習院に対する草莽の建白許可につながっていきました)。

慶喜は、宿舎に急遽、松平春嶽(総裁職)・松平容保(守護職)・山内容堂(前土佐藩主)を招いて勅使と応対しました。慶喜らは将軍上洛が目前に迫っており、上洛を待って攘夷期限を決めたいと答えました。しかし勅使は今日中に回答を要求し、押し問答の結果、「将軍帰府後20日の御宥免を蒙り、相違なく拒絶いたさせ候ことお請仕りぬ。滞京は10日限りたるべきよし、朝廷より御沙汰あるべき御都合のこと」との上答書を勅使に提出しました。(さらに、14日には関白に対し、攘夷期限を4月中旬と計算する書を提出しました)。

なお、越前藩の記録『続再夢紀事』によれば、春嶽は攘夷期限設定に反対しましたが、他の三人に押し切られたようです。

『続再夢紀事』によれば、慶喜邸でのやりとりはこんな感じだったそうです。
三条ら 幕府は既に「攘夷拒絶の勅旨を奉承」したが、未だ実施の期限を定めぬ。これでは折角奉承しても詮無いので、「即時に其期限を定めて上答」せよとの叡慮である。
慶喜ら 攘夷拒絶の期限を定めるのは「天下の重事」なので急にといわれても即時には定めがたい。(と反覆弁論したが、勅使は強いて上答を促した)

慶喜・容保・容堂 (ついに12日暁になり)この上議論してもその甲斐もあるまい。何とか期限を決めて上答しよう。

春嶽
「攘夷といひ拒絶といひ」既に奉承されはしたが、「實は至難の事にて天下の人心一致一和の上」でなければ実行不可能である。然るに「天下の人心」はいうまでもなく「公武の御間すらいまた真の一致一和にいたら」ぬ今日、その期限を定めるのは甚だしく「軽卒」で「至難の上に至難を重」ねるだけである。
慶喜・容保・容堂 軽率かつ至難の上に至難を重ねることになるが、今日の場合、上答せねばすむまい。とにかく「大凡の期限を定めて上答」すべきである。

<ヒロ>
春嶽としては、江戸で、みんな、公武合体派連合策(朝廷・薩摩を含めた有力諸侯の公武合体派との連携による公武一致の国是決定)で合意していたじゃないか??て感じじゃないでしょうか。(容保はおいといて・・・)

参考:『徳川慶喜公伝』2、『昔夢会筆記』、『続再夢紀事』一(2001/3/29)
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■浪士対策
【京】文久3年2月11日、守護職松平容保は、浪士を鎮撫するには兵力が必要だと痛感し、ついに会津藩士三組を出して、夜間の巡邏をさせることにしました

一組の構成は、甲士7人、与力7人、足軽5人、小頭1人の20人に組頭あるいは物頭1人を添えて主管とするものでした。町奉行与力や同心を先導とし、「法度を犯す者は捕縛すべし。もし反抗のはなはだしきものあらば、便宜斬殺するも可なり」という命令を出しました。これに呼応して、所司代も巡邏兵を出しました。

それまで「天誅」(という名のテロ)が頻発し、夜の街は寂然としていたのが、巡邏が行われるようになってからは夜市も再開されたそうです。(会津側の『七年史』の書くことですが)

参考:『七年史』一(2001/3/29)
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