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■攘夷期限 【京】文久3年2月11日、勅使8名が後見職一橋慶喜の宿舎を訪問し、攘夷期限決定を迫りました。慶喜・春嶽・容保・容堂が応対し、慶喜らは、将軍滞京は10日限りで攘夷は将軍帰府後20日以内の見込と上答しました。(春嶽は攘夷期限設定に反対しました) 上答書
晩年の慶喜自身の回想では、尊攘急進派は幕府の重職や将軍の上洛により公武合体派が勢力をのばすのを恐れ、この際攘夷期限を設定させ、将軍が上洛したときには攘夷決行しかない状況にしようと企てたのだとされています。 <この日の動き> この日の朝、久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟武兵衛の3人が鷹司関白に面会して、(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開、(3)人材登用、の三策を建議し、「今日中に決めよ。決まるまでは退かない」と迫りました。許容しなければ切腹して丹誠を示すと言ったともいいます(『七年史』)。 建議書のポイントは以下の通り。
さらに、午後には13名の急進派公卿が鷹司邸に群参して、ただちに久坂らの建白を天皇に報告せよと圧力を加えました。こうして三策は天皇に奏上され、騒ぎになることを怖れた天皇によって、御前会議で勅許されました。朝廷は、(1)の攘夷期限決定について、ただちに三条実美らを勅使として慶喜の宿舎に派遣し、「期限を早々に答えるように」との命を下しました。(三策の(2)言路洞開、及び(3)人材登用に関しては、国事参政・寄人の設置や学習院に対する草莽の建白許可につながっていきました)。 慶喜は、宿舎に急遽、松平春嶽(総裁職)・松平容保(守護職)・山内容堂(前土佐藩主)を招いて勅使と応対しました。慶喜らは将軍上洛が目前に迫っており、上洛を待って攘夷期限を決めたいと答えました。しかし勅使は今日中に回答を要求し、押し問答の結果、「将軍帰府後20日の御宥免を蒙り、相違なく拒絶いたさせ候ことお請仕りぬ。滞京は10日限りたるべきよし、朝廷より御沙汰あるべき御都合のこと」との上答書を勅使に提出しました。(さらに、14日には関白に対し、攘夷期限を4月中旬と計算する書を提出しました)。 なお、越前藩の記録『続再夢紀事』によれば、春嶽は攘夷期限設定に反対しましたが、他の三人に押し切られたようです。 『続再夢紀事』によれば、慶喜邸でのやりとりはこんな感じだったそうです。
<ヒロ> 春嶽としては、江戸で、みんな、公武合体派連合策(朝廷・薩摩を含めた有力諸侯の公武合体派との連携による公武一致の国是決定)で合意していたじゃないか??て感じじゃないでしょうか。(容保はおいといて・・・) 参考:『徳川慶喜公伝』2、『昔夢会筆記』、『続再夢紀事』一(2001/3/29) 関連■テーマ別文久3年「攘夷期限」■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■浪士対策 【京】文久3年2月11日、守護職松平容保は、浪士を鎮撫するには兵力が必要だと痛感し、ついに会津藩士三組を出して、夜間の巡邏をさせることにしました。 一組の構成は、甲士7人、与力7人、足軽5人、小頭1人の20人に組頭あるいは物頭1人を添えて主管とするものでした。町奉行与力や同心を先導とし、「法度を犯す者は捕縛すべし。もし反抗のはなはだしきものあらば、便宜斬殺するも可なり」という命令を出しました。これに呼応して、所司代も巡邏兵を出しました。 それまで「天誅」(という名のテロ)が頻発し、夜の街は寂然としていたのが、巡邏が行われるようになってからは夜市も再開されたそうです。(会津側の『七年史』の書くことですが) 参考:『七年史』一(2001/3/29) 関連■テーマ別「浪士対策」 |
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