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元治元年2月22日(1864年3月29日)
【京】会津藩邸会議:長州藩末家の召喚手続きを議論
【京】長州処分:肥後藩主兄弟、朝幕に対し、穏やかな長州処分を建議
【京】容堂、宗城に中川宮からの「薩・南肥・会三藩一和」周旋協力の沙汰伝達
【京】家茂、島津久光父子の多年の功を賞し、刀等を下賜

☆京都のお天気:晴 (久光の日記より)
■長州処分
【京】元治元年2月22日(1864年3月29日)、前日に約定があり、会津藩邸に松平春嶽(京都守護職+朝議参豫)・伊達宗城(朝議参豫)・有馬道純(老中)・稲葉正邦(京都所司代)が集まりました。出席した会津藩士から長州藩末家の召喚手続きに異論が出ましたが、春嶽・宗城が諭したところ、納得したそうです。

<ヒロ>
会津藩が軍事総裁職を拝命した前後から、関連諸藩との交流が目に見えて増えていますネ。容保が出席しなかったのは病中だったからでしょうか・・・。

【京】同日、肥後藩主細川慶順(ほそかわ・よしくに)の弟の長岡護久・良之助兄弟は、朝廷と幕府に対して長州処分に関する建議を行いました。その大意は、朝旨を以てまず長州藩主毛利敬親を説諭し、幕府が其の非違を糾弾すべきだというものでした。

また、同日、芸州藩主浅野茂勲も国是・長州処分について建議をしています。

<ヒロ>
肥後藩も芸州藩も、2月11日に内達の出た征長軍の「討ち手」に含まれています(こちら)。芸州藩の建白内容は調べられなかったのですが、肥後藩の建白は、2月8日の朝幕の会合で合意した方針(こちら)に沿う内容になっていますが、討ち手を命じられた征長をなるべく避けたいという気持ちが含まれているのでは、と思えます。

なお、長岡兄弟の建白書提出の日付は『維新史料綱要』によりました。伊達宗城の日記には、2月18日の項に、兄弟の建白をみたが「至極尤にて当節廟議(=幕議)と同主意」だと記されていますので、18日だった可能性もあると思います。(宗城が18日には草稿をみた可能性もありますが)

参考: 『維新史料綱要』五、『伊達宗城在京日記』p349(2010/4/15)
関連■テーマ別元治1「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊
【京】同日、宗城が山内容堂を訪ねると、容堂は中川宮から、宗城とも相談して「薩・南肥(=肥後)・会三藩一和」を周旋するよう沙汰があったと伝えました

その後、23日に中川宮を訪ねた宗城に、中川宮は改めてこの件をもちだします。中川宮は、「薩・南肥・会等」が「幕を見限」れば幕府が孤立し、幕府が孤立すれば「朝廷も危」いとの危惧を示しました。宗城は「御尤千万」だと思ったそうです。

<ヒロ>
「南肥」が、中川宮の中で唐突にクローズアップされたのは、肥後藩主弟の長岡兄弟が朝廷にも差し出した長州処分の建白も影響しているのでしょうか?

参考: 『伊達宗城在京日記』p349-p350(2010/4/15)
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【京】元治元年2月22日(1864年3月29日)、将軍は島津久光父子の多年の功を賞して、茂久に刀、久光に刀と鞍馬を与えました。

参考:『維新史料綱要』五、『玉里島津家史料』ニp758、(2010/4/15)

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