3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別幕末日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久4年2月8日(1864年3月15日)
【京】二条城会議/長州処分:参豫諸侯及び総裁職・老中、長州処分を議す/
近衛前関白らとも議し、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚と尋問、
(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討を決定/
【京】孝明天皇、会津藩主松平容保に内密の宸翰

☆京都のお天気:陰(久光の日記より)

■長州処分
二条城会議(久光・容堂・容保欠席)

【京】文久4年2月8日(1864年3月15日)、参豫諸侯(松平春嶽、伊達宗城)が二条城に登城し、慶喜・総裁職・老中と長州処分について評議しました。その結果、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚と尋問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討、の3点で意見が一致しました。

ただし、春嶽が、征討については朝議の決定がなくては不都合であると述べたため、結論を一時見合わせることにしました。

また、宗城の日記によれば、長州への尋問内容は以下の通りに決まりました。
去年八月十八日元三条始七人令誘引事
幕船ヲ引留候事(こちら
幕使(=中根一之丞)令暗殺候事(こちら
於長崎借(ママ)渡候薩船へ妄に令砲撃候事(こちら
(出典:『伊達宗城在京日記』)

○関白邸会議(容保欠席)

二条城での評議後、参豫諸侯及び総裁職・老中は二条(関白)邸に赴きました。二条城には登城しなかった参豫諸侯の久光・容堂も合流しました。朝廷側からは中川宮、山階宮、二条斉敬(関白)、近衛忠熙(前関白)・忠房(内大臣)父子、徳大寺公純(右大臣)が集まっていました。慶喜が二条城会議における決議の経緯を報告し、評議の結果、二条城会議の結果同様、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び(2)三条実美らの京都還送を命じることが決まりました(久光は「公武御相談一決」と記しています)。

久光の日記によれば、長州への尋問内容は以下の三条に決まりました(実質的には二条城会議と同じです)。
去年八月十八日元三条初七人無故誘引之事
幕船ヲ抑留シ幕使ヲ暗殺之事 (こちら
長崎ヨリ此方(=薩摩藩)拝借蒸気船砲発の事(こちら
(出典:『玉里島津家史料』ニ)

さらに、明9日に関白から天皇に奏上し、勅許があれば、速やかに総裁職・閣老に沙汰が下ることとなりました。

<余談>
前日、春嶽は慶喜から使者をもって、(1)相談したいことがあるので、明8日に久光・宗城を同伴して一橋邸に来るよう、また(2)その後直ちに登城して総裁職・老中との面談があり、二条関白邸にも参る予定である、と伝えられました。春嶽から連絡を受けた久光は「所労」(風邪?)のため集会を断りましたが、この日、一橋邸に集まっていた宗城から書状をもって二条関白邸まで来るよう求められました。(別件で)「不図」来邸した山階宮からも是非にと言われ、関白邸に行くことになりました。なお、この日、春嶽も風邪をひいており、一度は集会を断ったのですが、慶喜が黒川嘉兵衛を遣わし、今日は「過日来の大議を決し」て関白に報告するので、是非とも登城するよう求めたそうです。

久光の日記によれば容堂も参加していたようですが、もし来ていたなら、誰が招いたのか手持ちの史料からは不明です(伊達宗城の日記では「一橋春岳始四人」とされています)。

参考:『続再夢紀事』ニp408-409、『玉里島津家史料』ニp749-750、『伊達宗城在京日記』p327-329(2010/3/29)
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容保への密勅

【京】文久4年2月8日(1864年3月15日)夜、孝明天皇は、会津藩主松平容保に対し、「御製の和歌」(天皇の作った和歌)と称して宸翰(密勅)を下しました。それは、関白以下の側近にも相談せず、天皇が直に容保に下した密勅でした。容保の誠忠と兵権を頼んで密事を依頼し、まずは公卿・参豫にも内密に周旋・策略を提出することを求める密勅でした。ただし、宸翰(別紙を含む)において、密事が何かは明かされておらず、依頼を了承すれば内容を伝えると書かれていました。

なお、別紙には(1)将軍に下した2度の宸翰は厚く心得るべきであること、(2)容保の帰国運動があったときに自分は反対であったこと、(3)「国家の枢機を任ずるに足る愛臣」である容保に、密事の依頼があるので計略を立てて自分の意思を貫徹してほしいこと、(4)関白以下にも言わずに直接容保に依頼するのは考えがあることであること、(5)「依頼」というだけでは回答も難しいと思うが、まず了承するかどうかを返答してほしいこと、(6)いずれは関白・中川宮らも密事に与らせる考えであること、などが書かれていました。

容保らは「感泣」し、依頼を承知する旨の答書を認め、伝奏野宮定功を介して提出しました。

**

容保に下された宸翰(『京都守護職始末』巻之下採録)の概要は以下のとおり。
○昨年来、滞京し、「万々の精忠」には「深(く)感悦之至り」である。実に容易ならざる時勢に付ても、「其方か忠勤」に「深(く)悦服」している。

○容易ならざる時節柄なので、従来、「深(く)独(り)苦心」してきたが、(周りに)申し出ても「存分貫徹」しない事は明らかであり、「衆評には掛け」ていない。

○その方は「誠忠」であるので、「密事」であっても、「朕望之儀(朕が望みの儀)」を「貫徹」致してくれるのではないかと考える。その上、何分にも「多人令承知儀(多くの人を承知せしむるの儀)」であり、「兵権になくてはと深(く)存込」んでおり、その方へ依頼する。

○別紙に認めた件を「深(く)推察」し、周旋してほしい。互いに直ぐに「会得」することは難しいだろうから、度々往返したい。

○別紙にも認める通り、この件が「漏脱」しては実に望みを失うので、「堂上参豫の中たり共」洩らすことなく、「十分勘考」して策略を練り、自分が指図するまでは「秘置」いてもらいたい。

○他聞は禁じる。

宸翰別紙(『京都守護職始末』巻之下採録)の概要は以下の通り。
○「天下の形勢」は容易ならず、「万事痛心」している。そもそも、嘉永六年から安政頃まで、ますます「深苦心」を加えている件々は筆舌に尽くし難い。追々「精忠勤の輩」の「精勤」については、深く「感悦」している。

○なお、追々「評議に及んだ」儀は「表向」に申出た。去る21日と27日に宸翰を以て申渡した件は、「猶厚」く「心得」るべきである。

○ここで申し聞けるは、「深厚」に他聞を極秘にて「依頼候儀」であるので、「宜(しく)聞取」り、「無相違之周旋」を「深(く)頼入」るものである。

○元来、其方の今日までの「誠忠之段」は、「心骨」に徹しており、「感悦」している。昨年は「暴論之為」に守護職を辞して東下または帰国になるところだったが、(容保の)「誠忠」の疑いのないことは「深(く)察」しており、「惜念」止みがたく、「在役・滞京之段(を)断然申出(る)所存」だった。しかし、何分にも「暴論」が「朕(の)所存(を)矯(め)、我意之振舞のみ行い、当職も失権」し、両役(=伝奏・議奏)も誣いられた。「朕へ勤仕」は「名計」りであり、「却て暴人へ諂」のみであった。とても「朕(の)所意不貫徹」なため、内密に尹宮(中川宮)・前関白(近衛忠熙)等をもって、極密の書状を遣わしたところ、よく聞取ってくれ、万万の手続きも整って今に至る。守護職の誠忠深く心を安んじ、喜悦の至りである。「去る八月十八日の奮発」は朕においてはなかんずく心を悦ばせ、「即(ち)国事、随而朝廷の幸」であった。

○このような「忠厚、思慮宏遠、以て国家之枢機を任ずるに足る人と深(く)愛臣之事に候」。そこで、極密にて他聞を秘す「依頼之事」があるので、「極密之計略」をもって「朕之心底(を)貫徹致し」てくれないだろうか。この儀を「深呑込」み、周旋、成功となれば、「朕之憂憤を散霧」し、実に悦ばしい。

○「事を包」み、ただ「依頼」というばかりでは、可否の答もしがたいとは思うが、「深(い)存意」があり、「関白以下へも一言も不申、直に其方へ依頼候も一了簡有之」なので、まず「領掌(諒承)之可否」の答書もらいたい。承知の場合は、「深密之書状」を遣わす。

○その時は、書状を見て「意外之事と」思うかもしれないが、実に「深存込候儀」であるので、「篤と文意(を)会得」して、「不審議之周旋」を頼入る。この儀が「評議之様」になれば、とても「成就」はしない。「同輩相語らひ突掛候奮発之計略」を所望する。

○まずは(容保に)極密に依頼するが、周旋の場においては、関白(=二条斉敬)、尹宮(=中川宮)、三条前大納言(=正親町三条実愛?)、野宮宰相中将(=伝奏・野宮定功)、阿部宰相中将、久世前宰相、広橋右衛門督(=広橋胤保)らを引き寄せようと考える。しかし、首尾行き届く計略が出来た上のことにすべきであり、それまでは、仲介役の野宮にも秘め置くように。まずはその方だけで勘考せよ。

<ヒロ>
なお、孝明天皇は文久3年10月9日には、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています(こちら)。今回、御製と称して密勅を下したのは、前回のことがあるので、周りを欺きやすいと思ったのではないでしょうか。

久光への密勅との類似点
孝明天皇は、前年の文久3年11月15日には、島津久光に、近衛前関白経由で、21条から成る密勅を下しています(こちら)が、この密勅中に、容保への密勅内容と非常に似通っている部分があります。

まず、久光への密勅の第20条目(ナンバリングは仮)において、天皇は久光の「誠忠」に「感悦」し、今後、自分が申し出さん所の周旋を深く頼み置くとしています。次に、密勅の追伸(?)部分において、「外に一心ニ深苦心」している事があると打ち明け、今後、自分が依頼すれば成功するよう周旋を頼みたい、依頼内容を伏せたままの回答は困難だろうが、まず、依頼を請けるかどうか回答してほしい、と求めています。容保への密勅の主意とほぼ同じですよね。また、天皇は、久光への密勅第21条目において、(朝廷内で再び偽勅が横行したり、天皇の腹心が遠ざけられるなどの事態にならないように)、万一の場合には、「其方(の)取抑方(=鎮撫)」に「深頼入」と記しており)、問題の解決にあたって相手の兵権に期待している点も容保への密勅と共通しています。

どうもこの二つの密勅で言及されている密事は、同じことを指しているのではないかと思えてしまいます。もともと、天皇は久光への密勅と同じものを容保にも与えることを考えていましたし(密勅の追伸部分に、「会藩モ守護職之事周旋モ候へハ」、この書状を遣わすべきか内密に相談したい、としあります)。

容保と久光の密勅への対応の違い
両者ともに、密勅を拝承し、奉答書を提出しています。しかし、内容不明の密事の周旋の可否に関する回答及び再度の密勅付与については、下表のように、両者、まったく違う対応をしています。

久光の奉答書
(『玉里島津家史料』ニp598-602)
容保の奉答書
(『京都守護職始末』巻之下p14-16)
内容不明の
依頼事の周旋
まず依頼内容を聞いてから請けるかどうか言上する(「乍恐御訳合何共承知不仕候得は、如何様トモ難申上御座候間、御趣意承知仕候ハヽ、其節何分可奉申上候」)と回答 依頼内容を指示してくれれば、周旋する(「御深思之程如何被為在候哉、速に御垂諭奉願上候、随而、臣愚誠を尽し、微力を出し、聖心貫徹仕り、皇祖安全武運長久に赴候様周旋仕候」)と回答
関白等に相談のない密勅付与に対する意見 反対:容保への密勅付与には反対。自分に対しても「度々ヶ様御蜜(ママ)之 勅書拝載」を命じられては、「第一尹宮(中川宮)・前関白(近衛忠熙)等之処、別而恐入奉存」ので、以後は「彼両人丈江は御談合」してからにするよう求める。

→その後、再度の密勅はなし。
感激:「関白以下(へも)未(だ)御沙汰」のない件を「臣却て御依頼を蒙り、聖徳山海」にも比し難く、「恐奮至極」と回答。

→その後、再度の密勅が下る。

●密事の依頼先:久光から容保へ鞍替え?
久光に密事を依頼しようとした孝明天皇は、その内容を伏せたまま、まず相手が周旋を承諾することを期待していました。もし、久光に依頼を考えていた密事が容保への密勅と同じ密事であれば、天皇は、この件が「漏脱」しては成就しないので、「評議」にはかけておらず、最初は「堂上参豫の中たり共」洩らすことを避けたいと考えていました。だからこそ、「関白以下へも一言も」言わず、直接久光に依頼したはずです。しかし、奉答書において、久光は期待通りの回答はせず、その上、以後は少なくとも尹宮・前関白には相談してから密勅を下さるようにと、釘をさしています。もし、天皇が密事を久光に周旋させようとすると、まず、久光に依頼内容を明かさなくてはならず、しれに先立ち、尹宮・近衛前関白に相談しなくてはならなくなります。久光の奉答書を受けた天皇は、それでは「漏脱」につながり、事が成就しないのではないかと恐れたのではないでしょうか。久光に対し、再びこの密事について相談することはありませんでしたが、そういう理由があったのではと思います。そして、久光に頼めなくなった天皇は、今度は相手を変えて容保に依頼することにしたのではないでしょうか。

だとしても、なぜこのタイミングなのでしょうか?

密勅のきっかけ?−容保への宸賞書付に関する春嶽の提案
管理人は、容保への密勅付与のタイミングには、同年1月29日に春嶽が慶喜に行った容保(会津藩)賞揚の提案(こちら)が関っているのではないかと想像しています。この日、春嶽は、慶喜に書簡を送り、8.18の政変における松平容保/会津藩の功について、朝幕の賞揚(容保の参議任命・「宸賞(=天皇の賞揚)の御書付」下付、役地加増)を周旋するよう求めており、翌30日には慶喜も提案を了承しています。春嶽の3つの提案のうち、参議任命の沙汰は2月12日に、役地加増の沙汰は2月10日(こちら)に実現していますので、この時期までに、春嶽の提案について、朝幕双方への周旋が行われていたと想像できます。残りの「宸賞」の書付に関する周旋もこの時期に行われていたと考えるのが自然ですよね?周りから容保に「宸賞」の書付を与えてはどうかと意見された天皇は、前年10月に既に内密に御製と書付を与えていることもあり(こちら)、今回は久光に依頼しそこねた密事を容保に依頼する機だと判断し、容保に前回のように「御製の和歌」を与えると見せかけて、密勅を下したのではないでしょうか??(密勅中には容保への宸賞も含まれていますので、「宸賞の御書付」の拡大版ともいえると思いますし・・・)。

●「密事」の内容は?
この日から8日後の2月16日、孝明天皇は容保に対し、再び密勅を下します。管理人の想像は、その日の「今日」にてでも・・・。

参考:『京都守護職始末』、『玉里島津家史料』ニ(2001/3/15、2010/3/29, 4/6)
関連 ■テーマ別元治1「会津藩の賞揚」■守護職日誌元治1

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