☆京都のお天気:陰(久光の日記より) ■長州処分 ○二条城会議(久光・容堂・容保欠席) 【京】文久4年2月8日(1864年3月15日)、参豫諸侯(松平春嶽、伊達宗城)が二条城に登城し、慶喜・総裁職・老中と長州処分について評議しました。その結果、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚と尋問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討、の3点で意見が一致しました。 ただし、春嶽が、征討については朝議の決定がなくては不都合であると述べたため、結論を一時見合わせることにしました。 また、宗城の日記によれば、長州への尋問内容は以下の通りに決まりました。
○関白邸会議(容保欠席) 二条城での評議後、参豫諸侯及び総裁職・老中は二条(関白)邸に赴きました。二条城には登城しなかった参豫諸侯の久光・容堂も合流しました。朝廷側からは中川宮、山階宮、二条斉敬(関白)、近衛忠熙(前関白)・忠房(内大臣)父子、徳大寺公純(右大臣)が集まっていました。慶喜が二条城会議における決議の経緯を報告し、評議の結果、二条城会議の結果同様、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び(2)三条実美らの京都還送を命じることが決まりました(久光は「公武御相談一決」と記しています)。 久光の日記によれば、長州への尋問内容は以下の三条に決まりました(実質的には二条城会議と同じです)。
さらに、明9日に関白から天皇に奏上し、勅許があれば、速やかに総裁職・閣老に沙汰が下ることとなりました。 <余談> 前日、春嶽は慶喜から使者をもって、(1)相談したいことがあるので、明8日に久光・宗城を同伴して一橋邸に来るよう、また(2)その後直ちに登城して総裁職・老中との面談があり、二条関白邸にも参る予定である、と伝えられました。春嶽から連絡を受けた久光は「所労」(風邪?)のため集会を断りましたが、この日、一橋邸に集まっていた宗城から書状をもって二条関白邸まで来るよう求められました。(別件で)「不図」来邸した山階宮からも是非にと言われ、関白邸に行くことになりました。なお、この日、春嶽も風邪をひいており、一度は集会を断ったのですが、慶喜が黒川嘉兵衛を遣わし、今日は「過日来の大議を決し」て関白に報告するので、是非とも登城するよう求めたそうです。 久光の日記によれば容堂も参加していたようですが、もし来ていたなら、誰が招いたのか手持ちの史料からは不明です(伊達宗城の日記では「一橋春岳始四人」とされています)。 参考:『続再夢紀事』ニp408-409、『玉里島津家史料』ニp749-750、『伊達宗城在京日記』p327-329(2010/3/29) 関連 ■テーマ別文久3「長州藩の攘夷戦争」、「大和行幸と禁門の政変」、同元治1 「朝議参豫の動き」 「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■容保への密勅 【京】文久4年2月8日(1864年3月15日)夜、孝明天皇は、会津藩主松平容保に対し、「御製の和歌」(天皇の作った和歌)と称して宸翰(密勅)を下しました。それは、関白以下の側近にも相談せず、天皇が直に容保に下した密勅でした。容保の誠忠と兵権を頼んで密事を依頼し、まずは公卿・参豫にも内密に周旋・策略を提出することを求める密勅でした。ただし、宸翰(別紙を含む)において、密事が何かは明かされておらず、依頼を了承すれば内容を伝えると書かれていました。 なお、別紙には(1)将軍に下した2度の宸翰は厚く心得るべきであること、(2)容保の帰国運動があったときに自分は反対であったこと、(3)「国家の枢機を任ずるに足る愛臣」である容保に、密事の依頼があるので計略を立てて自分の意思を貫徹してほしいこと、(4)関白以下にも言わずに直接容保に依頼するのは考えがあることであること、(5)「依頼」というだけでは回答も難しいと思うが、まず了承するかどうかを返答してほしいこと、(6)いずれは関白・中川宮らも密事に与らせる考えであること、などが書かれていました。 容保らは「感泣」し、依頼を承知する旨の答書を認め、伝奏野宮定功を介して提出しました。 ** 容保に下された宸翰(『京都守護職始末』巻之下採録)の概要は以下のとおり。
宸翰別紙(『京都守護職始末』巻之下採録)の概要は以下の通り。
<ヒロ> なお、孝明天皇は文久3年10月9日には、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています(こちら)。今回、御製と称して密勅を下したのは、前回のことがあるので、周りを欺きやすいと思ったのではないでしょうか。 ●久光への密勅との類似点 孝明天皇は、前年の文久3年11月15日には、島津久光に、近衛前関白経由で、21条から成る密勅を下しています(こちら)が、この密勅中に、容保への密勅内容と非常に似通っている部分があります。 まず、久光への密勅の第20条目(ナンバリングは仮)において、天皇は久光の「誠忠」に「感悦」し、今後、自分が申し出さん所の周旋を深く頼み置くとしています。次に、密勅の追伸(?)部分において、「外に一心ニ深苦心」している事があると打ち明け、今後、自分が依頼すれば成功するよう周旋を頼みたい、依頼内容を伏せたままの回答は困難だろうが、まず、依頼を請けるかどうか回答してほしい、と求めています。容保への密勅の主意とほぼ同じですよね。また、天皇は、久光への密勅第21条目において、(朝廷内で再び偽勅が横行したり、天皇の腹心が遠ざけられるなどの事態にならないように)、万一の場合には、「其方(の)取抑方(=鎮撫)」に「深頼入」と記しており)、問題の解決にあたって相手の兵権に期待している点も容保への密勅と共通しています。 どうもこの二つの密勅で言及されている密事は、同じことを指しているのではないかと思えてしまいます。もともと、天皇は久光への密勅と同じものを容保にも与えることを考えていましたし(密勅の追伸部分に、「会藩モ守護職之事周旋モ候へハ」、この書状を遣わすべきか内密に相談したい、としあります)。 ●容保と久光の密勅への対応の違い 両者ともに、密勅を拝承し、奉答書を提出しています。しかし、内容不明の密事の周旋の可否に関する回答及び再度の密勅付与については、下表のように、両者、まったく違う対応をしています。
●密事の依頼先:久光から容保へ鞍替え? 久光に密事を依頼しようとした孝明天皇は、その内容を伏せたまま、まず相手が周旋を承諾することを期待していました。もし、久光に依頼を考えていた密事が容保への密勅と同じ密事であれば、天皇は、この件が「漏脱」しては成就しないので、「評議」にはかけておらず、最初は「堂上参豫の中たり共」洩らすことを避けたいと考えていました。だからこそ、「関白以下へも一言も」言わず、直接久光に依頼したはずです。しかし、奉答書において、久光は期待通りの回答はせず、その上、以後は少なくとも尹宮・前関白には相談してから密勅を下さるようにと、釘をさしています。もし、天皇が密事を久光に周旋させようとすると、まず、久光に依頼内容を明かさなくてはならず、しれに先立ち、尹宮・近衛前関白に相談しなくてはならなくなります。久光の奉答書を受けた天皇は、それでは「漏脱」につながり、事が成就しないのではないかと恐れたのではないでしょうか。久光に対し、再びこの密事について相談することはありませんでしたが、そういう理由があったのではと思います。そして、久光に頼めなくなった天皇は、今度は相手を変えて容保に依頼することにしたのではないでしょうか。 だとしても、なぜこのタイミングなのでしょうか? ●密勅のきっかけ?−容保への宸賞書付に関する春嶽の提案 管理人は、容保への密勅付与のタイミングには、同年1月29日に春嶽が慶喜に行った容保(会津藩)賞揚の提案(こちら)が関っているのではないかと想像しています。この日、春嶽は、慶喜に書簡を送り、8.18の政変における松平容保/会津藩の功について、朝幕の賞揚(容保の参議任命・「宸賞(=天皇の賞揚)の御書付」下付、役地加増)を周旋するよう求めており、翌30日には慶喜も提案を了承しています。春嶽の3つの提案のうち、参議任命の沙汰は2月12日に、役地加増の沙汰は2月10日(こちら)に実現していますので、この時期までに、春嶽の提案について、朝幕双方への周旋が行われていたと想像できます。残りの「宸賞」の書付に関する周旋もこの時期に行われていたと考えるのが自然ですよね?周りから容保に「宸賞」の書付を与えてはどうかと意見された天皇は、前年10月に既に内密に御製と書付を与えていることもあり(こちら)、今回は久光に依頼しそこねた密事を容保に依頼する機だと判断し、容保に前回のように「御製の和歌」を与えると見せかけて、密勅を下したのではないでしょうか??(密勅中には容保への宸賞も含まれていますので、「宸賞の御書付」の拡大版ともいえると思いますし・・・)。 ●「密事」の内容は? この日から8日後の2月16日、孝明天皇は容保に対し、再び密勅を下します。管理人の想像は、その日の「今日」にてでも・・・。 参考:『京都守護職始末』、『玉里島津家史料』ニ(2001/3/15、2010/3/29, 4/6) 関連 ■テーマ別元治1「会津藩の賞揚」■守護職日誌元治1 |
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