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文久3年2月15日(1863年4月2日)
【京】浪士対策:中川宮、浪士の意見を採用する三条実美らの影響で
朝廷の幕府への嫌疑が強いことを慶喜・春嶽・容保・宗城に伝える。

■浪士対策
【京】文久3年2月15日、青蓮院宮(中川宮)は、慶喜・春嶽・容保・宗城に対して、浪士の意見を採用する三条実美らの影響で、朝廷における幕府への嫌疑が強く、公武合体派の状況が厳しいことを伝えました。

後見職一橋慶喜の宿舎に政事総裁職松平春嶽・京都守護職松平容保・前宇和島藩主伊達宗城が集り、「暴行者(=浪士)」(『続再夢紀事』)に関して意見を交換しました。

前日、慶喜らは国事周旋をする浪士を説得して主家に帰参させ、主人のいないものは幕府が扶助すると決め、これを勅諚によって施行し、違反者は厳重処分に処すと決めました。しかし、慶喜と春嶽は、この意見を内奏するための参内を願い出るために鷹司輔熙関白邸を訪問した途中で、参内時に列席する議奏・伝奏が幕府の意見を浪士に漏らす可能性に思い当たり、参内願いを思いとどまりました(こちら)。

そこで、この日の朝、春嶽は薩摩藩士高崎猪太郎を青蓮院宮(中川宮)に遣わして、近日、後見職・総裁職に参内を命じるよう、その際、天皇の前には鷹司関白・近衛忠煕前関白・中川宮以外は列座のないようにと、申し入れました。しかし、中川宮は、<近来、嫌疑が甚だしく、こちらの申す事は容易に徹底しない。実は新殿下(鷹司)及び三条(実美)らは草莽の暴議をいれて頻りに関東(幕府)を疑い、遂に「聖明」(天皇の明晰な判断力)をもくらましてしまった。この様子では関東からどのように誠意を尽しても貫徹する機はなく、この方もほとんど困却している。この上は容堂に三条を説得させる外によい手段はない。容堂が説得しても尚三条が悟らねば、もはや頼むべき策はないので、その時には山林に引篭もるつもりであるが、容堂はもちろん、一越(慶喜・春嶽)も身を引くほかあるまい>と答えたそうで、高崎からそれを聞いた一座は大いに失望したそうです。

容堂は欠席していたため、春嶽・宗城が土佐藩邸を訪ね(高崎と中根靱負も同行)て説明したところ、容堂も一時はがっくりきたものの、明日三条を説得することになったそうです。

なお、この日の集会で、慶喜は、<脱藩者は世を憂えるあまり君親を捨てて国事に奔走するのだから、その志を賞すれば暴行はやむだろう>という意見を延べましたが、容保は、<浪士の乱暴の根本は安政の大獄によって下のものを統制してきたことにある。この弊習が除かれないままで、彼らは誉めようとするのは却って笑いを買うだけである。これまでどおり大目にみて時機を待つほうがよい>と反対したそうです。(『七年史』。『続再夢紀事』にはこのことは記されていません。容保の意見への関心度の低さがうかがわれるような・・・^^;)。

<ヒロ>
春嶽が中川宮の使者に送ったのが、越前藩士ではなく、薩摩藩士高崎猪太郎(高崎五六)だというのが面白いですよね。高崎は公武合体派で、江戸では越前藩邸をしばしば訪れ、中川宮や近衛忠煕関白(当時)の内意を告げたりもしていました。幕薩連合の公武合体派会議策実現のため奔走していた人物でもあります。(参考:テーマ別「薩摩藩と越前藩」)

関連:■テーマ別「浪士対策」■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年
参考>『続再夢紀事』一・『七年史』(2004/4/5)

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