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文久3年2月16日(1863年4月3日)
【京】浪士対策:関白鷹司、勅諚は困難だが、浪士処分を一橋慶喜に任せる意向を松平春嶽に示す
【京】守護職松平容保に浪士取締・取締り分担藩推挙の朝命
【京】攘夷親征:久坂玄瑞ら、世子毛利定広の旅宿に土肥志士を招き、攘夷親征を議論

■浪士対策
【京】文久3年2月16日、鷹司関白は、幕府の建議した浪士処遇につき、政事総裁職松平春嶽に対して、(1)同意するが、攘夷の素志を挫きかねないので勅諚は困難であること、(2)後見職一橋慶喜に取り計らってほしいこと、(3)それでよければ伝奏から通達すること、を返答しました。

<先日申し越した脱藩有志の儀(こちら)は・・・青蓮院宮(=中川宮)・前関白(=近衛忠煕)にも伝え、衆議した結果、皇国のため尽力し、身命を投げて脱藩した輩は旧藩で厚く登用・召抱え、その上で賞したらよかろうということである。しかし、攘夷の儀については、一身自在に周旋しようと思う輩もあるだろう。(旧藩で登用という沙汰は)かえって忠魂をくじくようにも聞こえ、(天皇の)厚い御趣意が齟齬しては容易ならぬことなので、朝廷からは言い出しにくい。この厚い思召しをもって、一橋中納言(=慶喜)が取り計らうわけにはならないだろうかと先に内談を申し入れた。もし、それでよければ、表向きは伝奏から達するよう申し付けよう。この間の返事の傍ら内談をするものである。よろしく指図するよう頼みいれる>(『続再夢紀事』一意訳byヒロ)

<ヒロ>
責任回避・・・。

(2003.4.18)

■浪士対策
【京】文久3年2月16日、朝廷は、京都守護職松平容保に対して、浪士取締、及び取締り分担に適切な藩の推薦を命じました。

容保が、関白鷹司に浪士寛大の方針を告げたところ、関白は強盗などの鎮撫が目的だと返答しました。

武家伝奏の野宮宰相中将と坊城大納言から松平容保に伝えられた朝命でした

その大意は<最近、朝廷のお膝元をはばからず、浪士どもがみだりに殺害を始めとして奇怪な所行に及ぶことは、主上の威厳にも響き、人心を鎮めることもおぼつかず、天下のためにならないと思われる。すでに一同には町触れを出したというが、今でも乱暴の所行がやまないという風聞がしきりに聞こえるので、早々に吟味し、このようなことがないよう、必ず取り計らうように。当然、会津藩一藩だけでは行き届かないだろうから、いずれの藩へ協力を命じればいいか所見を申し出よ>(『会津藩庁記録』一:口語訳はヒロ)

しかし、会津藩は浪士に関して寛大な処置で臨む方針でした。このため、容保が公用方に諮ったところ、厳重な処分はよくないとの意見でした。容保は、さっそく関白鷹司輔熙を訪問し、寛大の方針を伝えました。関白はあくまでの強盗などの乱暴な所行の鎮撫が目的であり、「有志の浪士」を吟味する趣意ではないので、寛大な処置を望むと答えました。

さらに関白が、後見職や総裁職に相談してきたのかと尋ねると、容保がまだだと答えたので、それなら朝命を改め、鎮撫に重点を置くことにしようと言いました。容保は、また朝命の文中に会津藩一藩だけでは行き届かないだろうから・・・とあるのは「山国育ちの家来ども心外に相心得、人気の折合いにも相響き不安」であると言い、関白はもっともなのでその文は削除しようと約束しました。

『京都守護職始末』では、「浪士逮捕のことを中止することができたのはみなわが公の尽力であった」としています。

<ヒロ>
急進派が支配する朝廷から、どうして浪士捕縛に関する朝命が出たのでしょう。捕縛の朝命を出しながら、鷹司関白の腰の引けている具合もナゾです(翌日の密書を参照)。他藩へ協力を求めるというところがポイントかもしれません。この文面を見た会津藩の頭をかすめたのは守護職就任運動を繰り広げている薩摩藩だったような気がします。近衛前関白・中川宮といった薩摩藩に近い公武合体派が主張して出した命令だったのかも・・・?

関白が浪士処分は慶喜に任せたいとの書簡を春嶽に渡した同じ日に、春嶽・慶喜に諮らず、武家伝奏経由という手順は踏んでいるものの、浪士捕縛に関する指示が容保に直接下っているのも興味深いです。容保も、この朝命について慶喜や春嶽に諮ることなく会津藩一藩で処理していますね。もちろん、前日に、浪士捕縛の一件については守護職の職掌であると認めさせたばかりではありますけれど。こと京都守護については、後見職・総裁職が在京していても、直接朝廷から指示を受ける立場であるようです・・・。(今後もこの点、フォローしてチェックしていきたいです)

参考:『会津藩庁記録』一・『七年史』一・『京都守護職始末』(2001.4.3、2004.4.6)

■攘夷親征
【京】文久3年2月16日、攘夷の決行を急ぐ長州藩急進派久坂玄瑞、佐々木男也、寺島忠三郎らは、肥後・土佐から宮部鼎蔵・轟武兵衛・平井収二郎他1名を世子毛利定広の旅宿(嵯峨天竜寺)に招きました。この席で、攘夷親征のための行幸が議論されました。

このとき、平井は、

<将軍上落後まず最初に定めるべきは攘夷期限である。攘夷は極めて困難で天皇親征の英断なくしては勝算を期し難い。昔光格天皇(当時上皇)が行幸して以来、天皇が御所内に留まり、世上の事態をご存知ないのは、幕府の深慮遠謀のあるところで、王政復古がならないのも、ここに基づく。将軍の上洛を待ち、親征の第一歩として将軍・諸大名を集めて比叡山に行幸し、山河の形勢と都鄙の状態をご覧あるべきである。このような機会があれば、上下みな威儀の盛んなことを拝し、朝廷の尊厳を仰ぐことになろう。即ち、幕権を削る手段である>

と比叡山行幸を主張しましたが、宮部が比叡山は道が険しいので、まず、加茂・石清水に行幸してはどうかと提案しました。一同同意し、20日の長州藩による加茂行幸の建議(こちら)につながったそうです。

参考:『徳川慶喜公伝2』(「浦靱負日記」「殉難録稿 平井義比伝」)(2001.4.3)

関連:■開国開城: 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■幕末日誌文久3 ■テーマ別文久3年:「浪士対策」「攘夷期限」「親兵設置問題」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

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