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文久3年2月14日(1863年4月1日)
【京】攘夷期限:容堂・容保・春嶽・慶喜、攘夷期限を4月中旬とする上書を提出
【京】浪士対策:二条城で、主人のいない浪士を幕府で扶助する処分案を決定
【京】国事参政・寄人:在京諸大名の招集及び言路洞開を建言

■攘夷期限
【京】文久3年2月14日、二条城に集まった山内容堂・松平容保・松平春嶽・一橋慶喜は、朝廷に対し、攘夷期限を4月中旬とする上書を連名で提出しました。

大樹公の滞京日数は10日と御治定になりましたが(こちら)、(将軍は)2月28日に出帆しますので、海上往復事に風波の障りがなければ、「四月中旬之内攘夷期限」となります。帰着より20日の猶予を下される儀は、先夜申し上げた通りなので(こちら)、右の見込みとなります。
(口語訳by管理人)

○おさらい
前文久2年12月から文久3年2月上旬にかけて、慶喜・春嶽・容保・容堂ら公武合体派が次々と入京したものの、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の勢いは増すばかりでした。浪士による「天誅」や脅迫が横行し、1月23日には公武合体派の近衛忠煕が関白を辞し、後任には親長州の鷹司輔煕が就きました。

三条実美ら勅使8名慶喜の宿舎を訪問し、勅諚をかざして攘夷期限決定を迫りました。慶喜は春嶽・容保・容堂を至急呼び出し、ともに応対しましたが、押し問答の末、勅使に押し切られ、到底実行不可能と知りつつ、将軍滞京10日・帰府後20日以内の攘夷を約束してしまいました(こちら)。(春嶽は、公武一和の実現が先だと反対したようです)

2月13日には、国事を議論する場として新たに国事参政・寄人が設置され、三条実美・姉小路公知を始めとして、定員14名中13名に急進派が任命されました(こちら)

参考:『続再夢紀事』一p375-376(2004/4/5)
■浪士対策
【京】文久3年2月14日、二条城で浪士処分に関する会議があり、国事周旋をする者を説得して主家に帰参させ、主人のいないものは幕府が扶助(養う)と議定しました。これは、勅諚によって施行し、違反者は厳重処分に処すというものです。(15日説あり)

●浪士捕縛案をめぐる慶喜・春嶽vs容保の対立と守護職の職掌
『七年史』によれば、春嶽・慶喜は、2月11日に長州の久坂玄瑞ら尊攘急進派が鷹司関白邸に押しかけて幕府に対して攘夷期限を定めるよう直訴した件(こちら)をきき、浪士を逮捕する強硬策を主張しました。春嶽は浪士ら数十人の名を記した書面を出して<浪士のうち姓名の判明しているこれらの者を探索して逮捕させよう>と町奉行に命じようとしたそうです。

ところが、名簿を熟読した容保は、轟武兵衛・久坂玄瑞ら2〜3名以外は等しく浪士ではあるものの、浪士の中には滔々として道を論ずる者・過激殺伐な者が混在していることを知っているのでこれを拒み、<この一挙は至重の関係を有する。まず根本を治めてから枝葉に及ぶべきである。僅かに武兵衛ら数人のためにその他の浪士をも逮捕するのは不可である。また、総裁の命ずべきことでもない(←守護職の職掌である)>と言ったそうです。(『京都守護職始末』によれば、容保は<浪士の中には藩士もおり、過激でない者、過激であっても罪状が明らかでない者も含まれている。全員逮捕すれば安政の大獄の二の舞となるので、しばらくこれを大目に見、そのあいだに弊習を改めるべきだ>と言ったとされています)。

春嶽は容保の言を容れず、捕縛させようとしましたが、容保もそれは自分の職掌だとして譲らず、ひとまず逮捕は中止することになりました。

そこで、議を改め、結局、上述の通り、昨年来浪士となって国事を周旋する者は諭して国へ帰らせ、主のない者は幕府が扶助することに決まったそうです。さらに慶喜らが鷹司関白に願い出て天皇の前で議決し、勅諚によって実行し、違反者は厳重処分に処すことになったそうです。(その後も春嶽は浪士捕縛を主張し、容保と激しく対立したようで、容堂・宗城が間に入って和解させ、結局、この件は守護職である容保に委ねることになったそうです)。 

●浪士処遇意見の参内・内奏
『続再夢紀事』の2月14日条には二条城に慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城が入城したことだけが記されており、上記の議論は触れられていません。ただ、同書によれば、退出の際、慶喜と春嶽は連れ立って鷹司輔熙関白を訪ねました。過日、春嶽が、「国内人心一和」のため、「有志」浪士が力を発揮できる対策を朝議で固めるよう、上書を提出したのに(こちら)、返答がないので、明15日にでも参内して孝明天皇の前で意見を奏上し、天皇の考えをきこうということになり、このことを願いに行ったのだそうです。この天皇の前で述べる意見というのが、上記のものということになるのでしょうか。ただし、鷹司が御所から帰ってくるのを待っている間に、参内したときに議奏・伝奏が列座すれば、奏上の内容が彼らから「暴行者」に漏れる可能性もあることに気づき、参内の件は述べず、攘夷期限に関する書面を起草して出すことになったそうです。

<ヒロ>
脱藩者は旧藩に帰らせ、その他の者は幕府が扶助する。それを朝廷から命じさせる。

この日、議定された浪人は帰藩させ、旧主のない者は幕府が扶助すべきだという意見は、もともとは前尾張藩主徳川慶勝(容保の実兄)が1月20日に幕府に提出した建議書にみられます(「三世紀事略」『徳川慶喜公伝史料編』一)。浪士を攘夷の先鋒として守護職の指揮下にという容保の提案には難色を示した春嶽ですが、幕府が浪士を扶助するという慶勝案は、江戸で既に浪士を募集しているわけですし、春嶽としても受け入れられやすい案だったのではないでしょうか。しかし、浪士を集めて、その後どうしたいのかというのはこの日の議論からは明確に見えてきません。また、浪士を幕府のコントロール下に置くのに朝廷の権威を借りねばならないとこうというあたりは、京都と江戸の情勢の差を感じさせると思います。急進派の勢力の強い朝議がこれを容れるかどうかは微妙だと思うのですが・・・。

それはともかく、在京浪士で主家のない者は幕府が扶助するという方針を幕府がここで決めたことは、壬生浪士の誕生へつながっていくと思います。

また、容保が浪士捕縛に関する春嶽の意見を「これは自分の職掌である」と突っぱねたことも興味深いと思います。容保は、前年、江戸で国是(攘夷奉勅か開国上奏か)決定で幕議が揺れ動いているとき、朝旨尊重の破約攘夷(三港外閉鎖こちら)を唱えていました。自分たちの建白で幕議が定まらない限りは上京できないと申し入れたところ、老中板倉勝静から、閉鎖の議は慶喜公上京して担当することになっており、守護職はそのような事まで責任を負う必要はないといわれています(こちら)。国是決定は守護職の職掌ではないと明言されたわけですが、その分、浪士取締りについては他の指図は受けないという意識が強かったんじゃないでしょうか?

参考:『京都守護職始末』1・『七年史』一『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2・『徳川慶喜公伝史料編』一(2001/4/1、2003/4/16、2004/4/5)
関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別「浪士対策」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
*日付は『七年史』より。『京都守護職始末』は15日説

■国事参政・寄人
【京】
文久3年2月14日、前日に設置された国事参政・国事寄人(14名中東久世少将を除く13名)が連署して、16日の在京諸大名の招集、言路洞開を建言しました

<16日に在京の諸大名を招集して衆議をお聞きになること。草莽有志の議論はこれより学習院に建言させ、国事御用掛が聞き届けて言上すること。諸大名参内の際は、外国防備のため対馬などの孤立の要地の警衛に関する策略も諮問すること>(『徳川慶喜公伝』より。意訳byヒロ)

<ヒロ>
参政・寄人の動きは、11日の久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟武兵衛の3人が鷹司関白に面会して迫った、(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開、(3)人材登用、の三策(こちら)を受けてのものでした。

参考:『七年史』一『徳川慶喜公伝』2(2001/4/1)
*日付は『七年史』より。『徳川慶喜公伝』は13日説。


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