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☆京都のお天気:晴暖甚シ(久光の日記より) ■参豫会議解体−朝廷参豫会議廃絶 【京】元治元年3月13日、松平春嶽(前越前藩主)及び伊達宗城(前宇和島藩主)に対し、朝議参豫解免が通達されました。ただし、御用の際は参内するようにとの沙汰でした。 <ヒロ> 宗城は参豫辞退を9日に願い出ていました。恐らく春嶽も同様だったのではないかと思います。久光・容保には翌14日に辞退許可が通達されています。慶喜への許可がいつなのか手持ちの資料からはよくわからないのですが、残りの参豫と同じ時期だと思います。 参考:『続再夢紀事』三p16-17、『伊達宗城在京日記』p377(2010/4/25) 関連:■テーマ別元治1「参豫会議解体」 ■松平春嶽の守護職辞任 【京】同日、越前藩在京要職が集まり、春嶽の進退について討議した結果、守護職辞任・帰国を内決しました。 その大要は以下のとおり。
<ヒロ> 管理人は、これ以外にも、前日、中川宮から幕府が慶喜の「守衛総督」を内願したことを知らされたことも影響しているのではないかと思っています(こちら)。 また、同日、越前藩は、幕府に対し、藩兵到着までは従来通りの会津藩による京都警衛を要請しました。 参考:『続再夢紀事』三p17−19(2010/5/1) ●おさらい:政体一新と春嶽の守護職辞任 春嶽は、文久3年の幕政改革を慶喜とともに実行してきた人物です。かねてから、「国家永遠の治安」を得るには「時勢に適する政体」を確立すことが肝要だと考えており、それには「第一に従来の幕習を脱却」すべきだと考えていました。しかし、老中以下幕府役人はそれに抵抗するだろうから、成否は慶喜にかかっていると考え、文久3年12月の慶喜入京直後に彼を訪ねて、その意見を確認しています(こちら)。春嶽とのやりとりで、慶喜は、今の時勢に処すべき方針は「中興」ではなく「創業」であると述べ、「創業」の基本は在京諸侯との「衆議」の上確定すべきだとの春嶽の意見にも同意していました。 春嶽にとって「創業」とは「従来の幕習」から脱却するこを意味していました。 また、「時勢に適する政体」については、従来、幕政からは除外されてきた雄藩代表(朝議参豫)の幕政参加を担保し、彼等を交えた「衆議」(あるいは「公議」)によって国家の重要課題を決定する政体を考えていました。その方策として、参豫の御用部屋入りを主張してきましたが、将軍とともに上京してきた老中たちは、旧来のやり方を変えるのを好まず、参豫諸候の幕政参加に抵抗しました。 2月9日、幕府は容保の征長副将任命及び守護職更迭を決定し、容保に代って春嶽に守護職を任命することになりました(こちら)。(容保の征長副将任命に伴い、春嶽が守護職に任命されることは、将軍上京前の参豫諸候集会(こちら)で合意されており、いわば内々の既定事項でした)。しかし、春嶽は、「廟議目下の如く因循」では守護職は到底請け難いと考えており、13日、藩議の結論に基づき、参豫諸侯を老中の上に置いて国事を議論する制度設立を求める意見書を将軍に提出しました(こちら)。15日、幕府が、軍事総裁職に転出した容保にかわって、春嶽を守護職に任命すると、春嶽は、守護職拝命にあたって、参豫諸侯の御用部屋入りによる「政体の一新」を求めました(こちら)。 2月16日、幕府は、ついに参豫諸候の御用部屋入りを認めました。(←これには、14日、将軍が、中川宮から「参豫の諸侯を閣中に入れて国事を議せしめられては如何」と促され、その通りにすると約束した(こちら)ことも大きく影響していると思われます)。しかし、慶喜/幕府が春嶽の唱える「政体の一新」に同意していたわけではありませんでした。この日、慶喜は久光・宗城らが御用部屋にいるのをみて「仰天」し、朝命はあったものの、「是迄相防居候処」、春嶽が「守護職の威に乗」じて「決断」したものであろう、「徳川家の紀律今日より相崩れ申候」と嘆いたといいます(こちら)。しかも、その直後、横浜鎖港問題をめぐって慶喜と他の参豫諸候の意見が対立し、慶喜が暴言を吐いて、両者の間には感情的な齟齬が生じました。 その後も、老中は旧態以前としており、慶喜は春嶽・久光・宗城を疑って、その尽力を忌避する様子でした(こちら)。 3月1日、春嶽は朝廷尊奉と政体一新を幕府に建議しましたが(こちら)、幕府は政体一新については同意しませんでした。同月8日、このままでは幕府が失体を重ねる一方であると憂慮した越前藩は、幕政一新の方策として、春嶽が慶喜に奮発・担当を勧告することを決め(こちら)、11日、春嶽が慶喜を訪ねて意見しましたが、慶喜は慶喜は冷淡な対応で、意見は採用されませんでした(こちら)。政体一新が実現困難であることを悟った越前藩は、議論の結果、守護職を辞任して帰国暇乞いを願うべきであると決めたのでした。 関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任・辞任」 ■松平容保の守護職再任 【京】同日、会津藩士小室金吾が一橋家の平岡円四郎を訪ねた際、平岡から「(守護職)御復職被成候御都合ニ可相成候処、如何有之哉」と尋ねられました。 また、倉沢右兵衛も中川宮から同様の質問を受けたといいます(日にちは不明確)。 ○公用方の反応 春嶽は守護職に、容保は軍事総裁職を命じられたばかりであり、不日に復職となっては「天朝幕府共に余り御居り無之様ニ相見」える。そうなっては越前家では大蔵様はもちろん御家来も世上に面皮を失い、「会津家ニてハ甘ク手を入出来候」などと御家を恨むことになるのは顕然としている。長州も「益憤を狭候儀ニ而」、(守護職を再び)御勤めになることは、「悪キ意味」がある。今、復職を命じられるようでは「皇国の御為ニ不相成」ので、復職の沙汰がないよう周旋尽力するよう命じられたく考え、公用方一同で御内座に赴いてその旨を言上した。 ○御内座の評議 評議の結果、普く尽力するには及ばないが、蛤門その他の警衛場所を越前家に受渡す予定であり、先方も精勤の御心構えであるのに、時を経ずに復職となっては「人気之居合も不宣、第一御政体ニおいて御居無之、甚以御為不宣訳」を主張し、尹宮(中川宮)・慶喜へのみ申し立てることになり、公用方にその指図を下した。 ○容保の意見 公用方で再度評議したが、広く周旋する方が主意が貫徹できるという結論となった。容保は病床にあるので奥番を介して意見をきいた。すると、「此節病中復職等被仰付候てハ差支候ニ付、御出勤迄御見合ニ相成候様周旋致候儀ハ、至極可然」という意見であったので、そのように通り取り計らうことになった。 <ヒロ> 会津藩にとっては青天の霹靂のニュースだったようです。 実は、容保の守護職復職については、2月24日、二条関白が参内した慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えていました(こちら)。これは孝明天皇の叡慮に基づく沙汰だったのですが、幕府が行動を起こさなかったため、3月9日、二条関白は、参内した慶喜をつかまえて、容保の守護職復職が遅れている理由を質していました(こちら)。関白からの督促で、家臣を会津藩に遣わしたのだと思われます。 孝明天皇は、2月16日に容保に宸翰を送って守護職復帰を望む旨を伝えていましたが(2/16)、この時点では、容保の復職は「事(=征長)済之上」の話でした。天皇は容保に対して内密な依頼があったのですが(依頼内容は明かされていない)、そのためにも守護職復職を希望していました。ただし、依頼の件は「守護職ならば重畳」だが守護職である必要はないとしており、復職までに時間がかかるなら、復職せぬままに実行が可能かどうかを容保に打診しており、また、現守護職の春嶽にも依頼を試みるべきかどうかと相談もしています。(奉答書において、容保は、守護職復職については天皇・将軍より沙汰があれば遵奉すると回答し、天皇が春嶽に依頼を試みる件については、春嶽は沙汰があれば遵奉するだろうし、その方が御都合もよいだろうと回答しました)。つまり、このとき、孝明天皇は、容保の守護職解任を残念には思うが、春嶽の守護職を受け入れようとしており、容保の復職を希望はしていましたが、それは今すぐではなく征長後という先のことでした。ですから、会津藩はこの時期に復職を求められるとは思ってもみなかったと思います。 参考:『会津藩庁記録』四p313(2010/6/27, 10/1) 関連:■テーマ別元治1 「容保の守護職再任」■「とことん京都守護職会津藩」 |
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