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元治元年3月22日(1864年4月27日)
【京】伊達宗城、近衛家で中川宮・久光と集会。慶喜の任命熟慮を入説
【京】中川宮・近衛前関白、慶喜への懸念から春嶽の守護職留任を強く希望
【京】川越藩、越前藩に二条関白の松平春嶽守護職解免反対意見を伝える
【京】島津久光、御用部屋辞退を小松帯刀を以て慶喜に再度申し出。


☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

●宗城の慶喜への疑惑
【京】元治元年3月22日、伊達宗城は、近衛家で中川宮(当時尹宮)・島津久光と落ち合い、中川宮と前関白近衛忠熙に対して、将軍後見職一橋慶喜の「京坂守衛総督願望」(+将軍後見職辞職)に関する疑念を唱え、総督任命の熟考を申し入れました。

宗城の意見は以下の通り。
一橋の「京坂守衛総督願望」には「何等訳」があるはずである。
「国是尊奉之筋」が立てば将軍は御帰営になり、諸大名へも御暇を下されるだろう。また、総督が新設されれば守護職も廃止かと思われる。
そうなれば、(徳川宗家の家族であり、固有の)兵権の無い一橋は「安心之筋ニ無之、(実の兄弟が藩主を務め、鎖港攘夷に熱心で長州に同情的な)水因備抔入説、後ろ楯に相成候程難計」、三藩が追々長州上京の周旋する「策畧も不可知」。
また、後見職を辞任すれば、「横浜鎖港抔も厳敷催促して人心を収め」、主上を擁して「咽喉之要地ニより終に天下ニ号令する勢ひに至候はかられず」。
よって(慶喜総督任命には)御熟考を願いたい。

中川宮が「愕然焦慮」して、どうすればよいのかと尋ねると、宗城と久光は「摂海新砲台守衛総督」であれば「後害」がないだろうと答えました

参考:『伊達宗城在京日記』p389-390(2010/9/21)

○宗城の動きのおさらい
・3月16日、薩摩藩邸を訪ねた宗城に、久光は、慶喜から「京摂総督」任命の内願があったこと、守護職も廃止になるだろうこと、また在京外様藩退京の建白もあったことを知らせた。両人は、「不容易姦謀」だと「痛歎」した。
・3月18日、宗城は、久光に、薩摩藩士大久保一蔵を介して、慶喜の総督就任願いに関する疑惑を伝え、このまま「傍観」すべきか、「今一段粉骨尽力」致すべきか、相談した。また、この日、春嶽から書簡を受取る。内容は、先日中川宮から聞いた話として、一橋慶喜及び老中・総裁職が各々二条関白と中川宮に慶喜の「京坂守衛総督」任命を内願したこと、朝議は多分任命と決していること、慶喜の総督就任後に将軍が東帰する様子であることを報じたもの。
・3月20日、山階宮を訪ねた宗城は、慶喜の総督就任願いには「深意」があるのではと注意喚起をした。また、宇和島藩邸を訪ねた一蔵に対し、「今一段尽死力周旋」すべきかどうかききたいとの久光への伝言を再度申し付けた。
・3月21日、宗城、近衛家を訪ねる予定が延期になったため、薩摩藩邸を訪問し、久光と内談。慶喜の「所業実不可解」と言い合う。また、久光は、19日に内大臣が「大隈にハ一生在京にても可然」などの話があったと語る。宗城、日記に「守護職之御内評かと被考」と記す。
・3月22日、宗城は、近衛家で中川宮・久光と落ち合い、中川宮と前関白近衛忠熙に対して、慶喜の「京坂守衛総督願望」(+将軍後見職辞職)に関する疑惑を唱え、総督任命の熟考を申し入れた。

<ヒロ>
○摂海新砲台守衛総督
宗城と久光が提案した代替ポスト、「摂海新砲台守衛総督」は、慶喜の希望している「京坂(京摂ともいう)守衛総督」に比べると、京都の守衛からは外れる上、摂海防御についても管轄は新砲台に限定され、格落ちという感じです。慶喜が受け入れるとも思えませんが・・・。

ちなみに、薩摩藩士高崎正風が3月26日に宗城に伝えた情報によれば、22日の時点で、前関白・中川宮は、宗城の入説を受けて、慶喜を「摂海防御総督」だけに任命するつもりだったそうです(さすがに新砲台は格落ちだと判断したのでしょうか?)。

ところで、彼らの提案どおりになれば、京都の守衛は、従来通り、京都守護職が責任者ということになります。ここで興味深いのが、21日の宗城の日記に、「一昨日(=19日)内府様にて大隈にてハ一生在京にても可然なと御話のよし、守護職之御内評かと被考候」と記されていることです。実は、久光は以前、近衛家を通して守護職就任運動を行ったことがあります。久光は、表向きは帰京の許可を求めていますが、守護職に任命されれば話は別のはずです。あわよくば今度こそ守護職を・・・という期待が、内心、芽生えていたんじゃないでしょうか??(勘繰りすぎ?)

ただし、この日、中川宮らから、春嶽の守護職留任に関する相談を受けたり、守護職を越前藩・会津藩の両藩に命じる話を知らされることとなり、仮に久光にそのような希望が芽生えていたとしても、一瞬に費え去ってしまったわけですが・・・。↓

関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月22日、近衛邸における集会において、中川宮・近衛前関白は、宗城・久光に対し、何かあったときに慶喜を掣肘できる春嶽の守護職留任を強く希望する旨を述べました。また、宗城は、中川宮に対し、越前・会津の両藩が守護職になれば「御手厚にて可然」と答えました。
●近衛前関白・中川宮の慶喜への懸念→春嶽の守護職留任希望
伊達宗城が3月27日に越前藩士中根雪江に語ったところによると、前関白及び中川宮は、慶喜を「冀望(きぼう)」通り禁裏守衛総督任命することになったものの、慶喜には「例の己を恃(たの)む癖」があるので、「今後如何なる気随の挙動に及」ぶか予測できず、「大に懸念する」と話したそうです。さらに、そうなったとき「これを抑止」するには、春嶽以上に人材がおらず、「越前の守護職は当節必用の見込」なのに、最近、春嶽が頻りに辞職を主張するので「甚当惑」していることを伝え、どうすればよいか相談したそうです。両人とも「容易ならざる御心痛の模様」であり、中川宮は「殊に大蔵太輔(=春嶽)の在職を冀望(きぼう)せらる御様子」だったそうです。(『続再夢紀事』)

●越前藩・会津藩両藩への守護職任命
また、宗城が「大蔵(=春嶽)之事」について尋ねると、中川宮は「何も不首尾は無之、(守護職を)会と代り合、幕より申兼候故云々」と答えたそうです。宗城が「両人共守護職に候はば御手厚にて可然」との意見を述べたところ、中川宮は両家に守護職を命じては「互ニ不平可相生との懸念」もあると話しました。それに対して、宗城は「越会なら其患は有之まじくと存候」と回答(安請け合い!)しています。(『伊達宗城在京日記』)

<ヒロ>
容保の守護職復職については、2月24日、二条関白が参内した慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えていました(こちら)。これは孝明天皇の叡慮に基づく沙汰だったのですが、この時点では、朝廷は、春嶽の解職までは求めていなかったようです。時期不明ながら、中川宮は二条関白とともに春嶽の守護職解任の沙汰を幕府に伝えたとされています(こちら)が、この日の「(守護職を)会と代り合、幕より申兼候故云々」という発言からは、朝廷は越前藩と会津藩と交替で守護職を務めさせるつもりなのに、幕府がそれを言い出せないでいる・・・ととれます。まあ、朝廷側の意見がころころ変るのは今さら始まったことではないのですが・・・。

中川宮は、3月15日に春嶽の辞意を聞かされたとき、薩越退京後、慶喜の実の兄弟が藩主である水戸・備前・因幡藩(鎖港攘夷派だけど長州シンパ)が勢力を伸ばし、形勢が一転するのではないか、と痛く当惑していました(こちら)。朝議が慶喜の禁裏守衛総督任命決定に向かって進んでいくうちに、その不安がいよいよ増し、両藩に守護職を命じる話が再浮上したというところでしょうか。

また、慶喜の奸計を唱える宗城にしてみれば、慶喜個人を掣肘する存在として春嶽を頼む中川宮の気持ちは理解しやすいものだったと思います。容保には政治的能力は期待していなかったと思いますが、会津藩の軍事力を考えたときに、会津・越前の両藩が守護職として滞京すれば、慶喜の背後にいると疑う水戸・因幡・備前藩へのよいけん制になると思ったのではないでしょうか。とはいえ、何を根拠に「越会なら其患は有之まじくと存候」なんて言ったのでしょう??

参考:『続再夢紀事』三p68, 『伊達宗城在京日記』p390(2010/9/23,9/28, 10/1)

***

【京】元治元年3月22日、川越藩士四王天兵亮が越前藩を訪ね、応対した藩士酒井十之丞に、関白二条敬親が幕府に春嶽の守護職解免を許可せぬよう求めてきたことを知らせました。さらに、関白の言動は会津の入説の結果だと思われるので、春嶽側も関白に入説すべきだと勧めました。

<ヒロ>
越前藩は、辞職の願書を3月17日には総裁職松平直克に(こちら)、翌18日には将軍後見職一橋慶喜に差し出しています(こちら)が、あくまでも内願書であったので、21日、手続きを整えるために公式な願書を出したばかりでしたが、同じ日に、関白から一橋慶喜及び川越藩(政事総裁職松平直克)に対し、守護職を解任せぬようにとの申し入れがあったのでした。

川越藩は越前藩に春嶽の守護職辞任を勧めた経緯(「朝幕をはじめ諸藩に於て御評判宣しからず。依然御奉職あらば如何なる御不都合を生ずべきや測りがたければ此際御辞表を捧げられては如何」)があり(こちら)、急ぎ事情を知らせたのだと思います。(関白から直書を受取った慶喜の家臣ではなく、直克の家臣が来た・・・というのも、慶喜と春嶽の距離を感じさせる気が・・。慶喜側の反応は23日の「今日」で)

●会津藩の守護職再任辞退
二条関白は、これまで、孝明天皇の叡慮に基づき、容保の守護職再任を強く求めてきました。2月24日、参内した慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝え(こちら)、3月9日、参内した慶喜をつかまえて、容保の守護職復職が遅れている理由を問い詰めていました(こちら)。時期は不明ですが、この頃、春嶽の守護職解任も求めています(こちら)。さらに、春嶽が辞表の内願を出した18日には、会津藩に容保の再任受諾を強く促していました(こちら)。容保の再任と春嶽の解任はセットのようになっていたのです。

四天王によれば、容保の守護職再任(つまり、春嶽の辞任が前提)を積極的に推進してきた関白がその考えを翻したのは、会津藩の入説でした。

実は、会津藩では守護職というポストが国力疲弊につながるため、復帰を望んでおらず、容保の体調不良を理由(口実)に復帰に抵抗し続けていました(こちら)。ところが、朝廷は春嶽の守護職解任の考えは改めたものの、容保の守護職再任も引き続き求め続けたため、会津藩の抵抗はこの後も続きます。そして、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任(3月25日)への反発から、28日には復帰辞退の願書を正式に提出することになります・・・。

●朝廷の方針転換
四天王は、会津藩の入説により、二条関白が方針転換したのだろうと伝えています。それだけではなく、朝議において上記の慶喜の禁裏守衛総督就任に伴う懸念や、会津・越前の両藩に守護職を命じることが検討されたことも関係しているという気がします。

参考:『続再夢紀事』三p51-52(2010/9/21, 9/28, 10/1)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職辞任問題・容保の再任問題

■参豫の幕政参加
【京】元治元年3月22日、島津久光は、家老小松帯刀を以て、一橋慶喜に御用部屋入り辞退を再度願いました。

宗城・久光は17日に辞退を申し出ていました(こちら)

参考:『伊達宗城在京日記』p388(2010/7/8)
関連:■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題

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