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文久3年3月24日(1863.5.11):
【京】生麦賠償:老中格小笠原長行、東帰のため退京。
【京】後見職一橋慶喜、水戸家老大場一真斎に無謀の攘夷はせぬよう達す

■生麦事件償金支払問題
【京】文久3年3月24日、朝廷は、明25日に東帰する水戸藩主徳川慶篤に対し、将軍目代として関東を防衛し、先代の遺志を継いで攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました。

この日、特命を以て参内した慶篤は、小御所にて天盃を、廊下にて節刀(真の太刀)、次に以下の沙汰を渡されました。
「関東守衛の為、下向仰せ付けられ候に付き、防禦筋の儀、大樹目代の心得を以て指揮之有るべく候。先祖以来格別勤王の家柄、先代の遺志継述致し、全藩一致尽力防戦し、夷狄掃攘の成功を奏すべく候様、御沙汰候事」
(『水戸藩史料』。仮書き下し&句読点by管理人。旧字は適宜当用漢字に変えています。)

【京】同日、後見職一橋慶喜は、慶篤に随従して東帰する水戸藩家老大場一真斎に対し、「無謀小勇の輩」がないよう指揮することを命じました。

「江戸表御警衛の為差遣わされ候に付ては、若し兵端相開き候節は、実に以て皇国の御大事に候えど、勝算相立ち、御国威相輝き候様致すべく候。勿論、名義正しく之無く候ては万国に対し御恥辱に付き、無謀小勇の輩之無き様指図致すべく候事」
(『水戸藩史料』。仮書き下し&句読点by管理人。旧字は適宜当用漢字に変えています。)

<ヒロ>
「無謀小勇の輩」は、攘夷の機会を待ちに待っていた水戸藩激派たちのことでしょうか(先に東下していた浪士組も念頭にあったかもしれませんが)。もっとも、大場一真斎はいわゆる尊攘激派三家老の一人で、攘夷については武田耕雲斎同様、「いけいけどんどん」な人物なのですが・・・。(開国派慶喜にとっては、水戸藩は実家で、事情をよく知るだけに、頭が痛いところだったのかも)

なお、慶篤は、家老への達文を受けて、翌25日、交渉に関する伺書を幕府に提出しています。(「昨日、家老共に御掛け御座候英夷御応接向の儀、甚だ重大の事件にて、追々の御手続きも承知致さず、軽率の御挨拶には及び兼ね候えども、償金等の儀御聞届けに相成り難く候に付き、戦争にも相成るべく旨、一旦御触出しに相成り候上は、今更別段に御扱振りも御座有るまじく存じ候。尤も、今般の儀、全く島津三郎より起り候事に候えば、公辺に於て、強て御難題に候はば、右応接向、同人に御掛けにて御国辱に相成らざる候様、何とか御沙汰振りも御座有るべく候や。尚更、宜しく御賢慮御座有りたく存じ候」『水戸藩史料』)

慶篤も、今さら償金支払い拒否以外の処置はありえないだろう、と拒否→開戦のつもりで東下していくことがわかりますよネ。

【京】文久3年3月24日、老中格小笠原長行が東帰のため、急遽、退京しました。(『水戸藩史料』・『徳川慶喜公伝』。『小笠原壱岐守長行』では25日)。

<ヒロ>
小笠原は、償金支払→率兵上京と大活躍する予定です^^。小笠原が滞京中に提出した開国の意見書も、長文なのですが、資料コーナーに載せられたら、と思っています。

関連:テーマ別「小笠原長行(文久2)」「小笠原長行(文久3)」

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