■将軍東帰問題 【京】文久3年3月22日夜、明23日に京都出立と決めていた将軍徳川家茂は、三度めの滞京の勅命を下されて、ついに東帰をとりやめました。また、水戸藩主徳川慶篤には、関東守衛のために速やかに東帰し、攘夷に尽力するようにとの朝命が下りました。 ●将軍の23日東帰の布告 後見職一橋慶喜は前日21日に関白鷹司輔熙から将軍東帰の内許を得ており(こちら)、この日、23日を将軍出立の日として布告して、その準備を進めさせていました。先陣として越後高田藩主榊原式部大輔(政敬)が京都を出立しました。(慶喜も将軍と一緒に帰る予定だったようです)。 将軍は天皇に対して19日に滞京を約束したばかりでした(こちら)。突然の将軍東帰の布告は朝廷・諸藩に波紋を呼び、反対運動を引き起こしました。 ●会津藩の反対 22日朝、幕府の東帰再決定を聞いた会津藩は大変驚き、<幕府がこのようでは違勅の罪は免れない>と、家老横山主税らや公用方を、慶喜、前尾張藩主徳川慶勝。老中板倉勝静・水野忠精、武田耕雲斎・大場一真斎らに派遣しました。(慶喜&耕雲斎には秋月悌次郎・松坂三内、老中には大野英馬・河原善左衛門、水戸藩へは広沢富次郎・柴太一郎、尾張藩には小野権之丞・小室金吾。さらに横山主税・田中土佐・丹羽勘解由・野村左兵衛・外島機兵衛)。 その後、二条城に登城した会津藩家老横山主税・田中土佐らも、老中に<公武一和もいまだならないのに将軍が帰っては隙を生じ、再び一和の道がないことは火を見るより明らかである。まして勅命を請けて日も立たないというのに、東帰となれば、違勅となる。もし、関東で攘夷総督が必要ならば、不肖なりとも寡君容保が、全藩を率いて東下し、その任に当たるも辞さないであろう>と主張し、さらに<将軍は東帰の意思がないのに、左右に強いて勧める者がいる。このような不忠者を罰して衆人の心腸を洗浄せよ>と迫ったそうです。老中がらがこれをきかないので、家老や公用方は憤激し、<わが公の一大事>と会津藩士を二条城に呼び集め、死を決して東帰を阻止しようとしました。二条城には会津藩士数百名がかけつけ、城内は騒然としたそうです。 将軍出立問題に関するさまざまな緊張状態を報告した3月25日付け江戸・会津公用方への京都藩庁の書簡は、最後に<これらの情勢をもっても、実にお家の存亡の際にあったのだが、運良く出立延期となったので、ひとまず安心なされたことをすみやかに報せるようおおせられたので認めた>と締めくくっています。 ●水戸藩・尾張藩の反対 水戸藩・尾張藩も将軍東帰中止反対でした。『水戸藩史料』によれば、水戸藩主徳川慶篤と前尾張藩主徳川慶勝に将軍東帰を留め、暫く滞京させるよう周旋せよとの勅があり、ともに将軍に直諫したそうです(23日のこととされていますが、他の資料と比較して22日のことと判断しました)。また、『七年史』によれば、水戸藩の大場一真斎は、当時病床にありましたが、知らせをうけると二条城に登城して慶喜に面会し、<万一東帰となれば、徳川家の天下は今日に尽き果てましょう>と説き、また、尾張藩附家老成瀬隼人正も登城して、東下中止を迫ったそうです。しかし、慶喜はその途中で席を外し、老中も用事に託して席を離れ、大小目付だけがその場に残る有様で、成瀬は思わず落涙したとか・・・。 ●長州藩・急進派公卿の反対
*近藤勇書簡にも建白書の写しが収録されています。微妙に言葉の違うところがあります。管理人による素人口語訳⇒「私的資料集:近藤勇書簡(2)志大略認書」 ●孝明天皇の反対
<おさらい:第1次将軍東帰運動> ○無理な攘夷期限と将軍滞京延期運動 将軍上洛前、尊攘急進派の仕切る朝廷から攘夷期限設定を迫られた将軍後見職一橋慶喜/在京幕府は、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、朝廷からもその旨の沙汰が下りました。この沙汰に従うと、3月4日に入京した将軍は3月14日に江戸へ向けて出立することになります。いったん帰府すると20日以内に攘夷の実効を挙げねばなりませんが、それはとうてい無理だというのが慶喜たちの認識でした。 危機的な状況を打開するために、慶喜が考えたことは、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の尽力に期待した滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)でした。ちょうど、江戸においては生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、英国が戦端を開く可能性や、摂海まで英国艦が押し寄せる可能性も危惧されたことから、3月8日、慶喜は、京都守衛のための将軍滞京と江戸防御のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請し(こちら)、11日には朝廷から「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京、攘夷防衛戦争の指揮のための(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の帰府を命じられました(こちら)。朝廷は、翌12日には慶喜・春嶽一方の両日中(3月14日まで)の退京・帰府を催促し(こちら)、14日には、鎖港交渉のために春嶽の帰府を命じました(こちら)。 ところが、総裁職の春嶽は、公武一和の周旋に限界を感じて、9日に幕府に総裁職辞表を提出して引篭り中で、慶喜らの慰留にもこたえず(こちら)、15日には重臣を通じて朝命を断るよう求め、改めて辞職を再願しました(こちら)。 ○生麦事件償金交渉と将軍東帰運動への転換 そこへ、江戸からの使者が到着し、諸外国公使が、将軍滞京延期により幕府に疑念をもっており、さらに将軍辞任の風説を伝聞して、交渉相手の変更があれば本条約遵守もおぼつかないと不信感を募らせていると告げ、早々の将軍帰府を促しました(こちら)。在京幕府は、これを受けて、将軍の3月21日京都出立を内決し、使者を江戸に派遣して英国側に伝えさせました。こういう状況なので、21日以前に将軍東帰の許可を得ねば、英国人の不信をさらに買うことになります。(将軍東帰を決めた理由には、その外、(1)生麦事件の交渉が迫るというので、交渉決裂による戦を怖れて江戸・横浜市中が動揺し、それをきいた将軍随従の旗本・御家人が帰府を望んだ、及び(2)公武合体連合策がはかどらず、総裁職の春嶽が辞表を提出し、また、薩摩藩の島津久光がようやく上京したものの、その建白が容れられず、却って誹謗されて、退京の準備を始めたということもあったようです)。 ○将軍滞留、三度の勅と東帰中止 3月17日、慶喜と老中が参内して、将軍東帰を奏請しましたが、朝廷は滞京して摂海に英国艦を迎え、攘夷を実行せよ、と東帰を認めず(こちら)、翌18日には(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、の勅旨を伝えました(こちら)。 それではと、孝明天皇に直接東帰を請願するために、19日、将軍は慶喜らと参内しましたが、逆に、天皇から直接滞京を求められ、感激して東帰中止を回答してしまいました(こちら)。その折には、戦争は好まないとの直諭があり、摂海攘夷指揮は偽勅だということが判明しました。 幕府はあきらめませんでした。21日、慶喜は老中板倉勝静・水野忠精とともに、関白鷹司輔熙に面会し、<江戸では必ず外国との戦争になるだろうから将軍が直接指揮をしなくてはならない>と論じ、東帰を再願をしました。関白はもっともだと東帰を了承したものの、伝奏・議奏・国事掛にも諮った後で確答するから、とりあえず、東帰の準備を進めるように述べました。そこで、幕府は明後23日出立と決め、東帰の準備を始めていました(こちら。 <おまけ> 残留浪士の上書は、会津藩庁記録では24名が出向いたことになっていますが、近藤が故郷に送った書簡「志大略相認書」によれば、芹沢・近藤らは18名連署の上書を持って老中の宿舎まで出向き、目通りを願い出て、議論をしたことになっています。公的記録である藩庁記録の方が正確だと思います。当事者の同時代書簡だからといって、事実を伝えているとは限らないということに、注意せねばな・・・とつくづく思います。この2つの同時代記録の人数の差・・・残留浪士組の派閥を示唆しているのかもしれません。(⇒「覚書」「名簿にみる残留浪士組の派閥抗争」準備中・・・と数年前から書いているのですが、興味が薄れてきたので、いつUPできるかわかりません^^;) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題」 ■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) 参考>『会津藩庁記録』一・『伊達宗城在京日記』・『七年史』一・『修訂防長回天史(第三編下)』・『徳川慶喜公伝』2(2000.5.2、2001.5.2、2003.5.10、2004.5.10) |
|