5月の幕末
京都
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文久3年3月22日(1863年5月9日) 
将軍東帰(:将軍滞京三度目の勅・幕府、将軍東帰中止
会津藩・水戸藩・尾張藩、将軍東帰を極諌
長州藩、摂海戦守御備12か条提出
残留浪士、老中に将軍滞京を直訴
生麦賠償:水戸藩に東帰・攘夷戦争指揮の朝命/

■将軍東帰問題
【京】文久3年3月22日夜、明23日に京都出立と決めていた将軍徳川家茂は、三度めの滞京の勅命を下されて、ついに東帰をとりやめました。また、水戸藩主徳川慶篤には、関東守衛のために速やかに東帰し、攘夷に尽力するようにとの朝命が下りました

●将軍の23日東帰の布告
後見職一橋慶喜は前日21日に関白鷹司輔熙から将軍東帰の内許を得ており(こちら)、この日、23日を将軍出立の日として布告して、その準備を進めさせていました。先陣として越後高田藩主榊原式部大輔(政敬)が京都を出立しました。(慶喜も将軍と一緒に帰る予定だったようです)。

将軍は天皇に対して19日に滞京を約束したばかりでした(こちら)。突然の将軍東帰の布告は朝廷・諸藩に波紋を呼び、反対運動を引き起こしました。

●会津藩の反対
22日朝、幕府の東帰再決定を聞いた会津藩は大変驚き、<幕府がこのようでは違勅の罪は免れない>と、家老横山主税らや公用方を、慶喜、前尾張藩主徳川慶勝。老中板倉勝静・水野忠精、武田耕雲斎・大場一真斎らに派遣しました。(慶喜&耕雲斎には秋月悌次郎・松坂三内、老中には大野英馬・河原善左衛門、水戸藩へは広沢富次郎・柴太一郎、尾張藩には小野権之丞・小室金吾。さらに横山主税・田中土佐・丹羽勘解由・野村左兵衛・外島機兵衛)。

その後、二条城に登城した会津藩家老横山主税・田中土佐らも、老中に<公武一和もいまだならないのに将軍が帰っては隙を生じ、再び一和の道がないことは火を見るより明らかである。まして勅命を請けて日も立たないというのに、東帰となれば、違勅となる。もし、関東で攘夷総督が必要ならば、不肖なりとも寡君容保が、全藩を率いて東下し、その任に当たるも辞さないであろう>と主張し、さらに<将軍は東帰の意思がないのに、左右に強いて勧める者がいる。このような不忠者を罰して衆人の心腸を洗浄せよ>と迫ったそうです。老中がらがこれをきかないので、家老や公用方は憤激し、<わが公の一大事>と会津藩士を二条城に呼び集め、死を決して東帰を阻止しようとしました。二条城には会津藩士数百名がかけつけ、城内は騒然としたそうです。

将軍出立問題に関するさまざまな緊張状態を報告した3月25日付け江戸・会津公用方への京都藩庁の書簡は、最後に<これらの情勢をもっても、実にお家の存亡の際にあったのだが、運良く出立延期となったので、ひとまず安心なされたことをすみやかに報せるようおおせられたので認めた>と締めくくっています。

●水戸藩・尾張藩の反対
水戸藩・尾張藩も将軍東帰中止反対でした。『水戸藩史料』によれば、水戸藩主徳川慶篤と前尾張藩主徳川慶勝に将軍東帰を留め、暫く滞京させるよう周旋せよとの勅があり、ともに将軍に直諫したそうです(23日のこととされていますが、他の資料と比較して22日のことと判断しました)。また、『七年史』によれば、水戸藩の大場一真斎は、当時病床にありましたが、知らせをうけると二条城に登城して慶喜に面会し、<万一東帰となれば、徳川家の天下は今日に尽き果てましょう>と説き、また、尾張藩附家老成瀬隼人正も登城して、東下中止を迫ったそうです。しかし、慶喜はその途中で席を外し、老中も用事に託して席を離れ、大小目付だけがその場に残る有様で、成瀬は思わず落涙したとか・・・。

●長州藩・急進派公卿の反対
当時の長州藩は、藩主敬親は既に退京しており、世子定広も兵庫警衛地にいたため、在京していませんでした。しかし、22日、将軍東帰を伝え聞いた在京藩士は傍観しているわけにはいかないと、朝廷に<摂海防御は将軍自らが任にあたるべきで、将軍の帰府はやめさせるべきだ>との趣意の摂海戦守御備12ヶ条を建白しました。(『修訂防長回天史』の建白書日付は23日。23日未明??)

さらに、高杉晋作・寺島忠三郎・時山直八・野村和作・伊藤俊輔・品川弥ニ郎ら19名及び肥後浪士安田善助は鷹司関白の屋敷に出向いて将軍の去留をきかないうちは退去しないと居座りました。(このとき、肥後浪士堤松右衛門は、その列に加えられなかったのを憤り、即夜、自刃したそうです)。

また、長州藩士と急進派公卿には、三条橋東において将軍の駕籠をとめようとの動きがありました(『会津藩庁記録』一)。

●残留浪士の反対
会津藩御預りの残留浪士24名は、老中板倉の滞在場所まで押しかけ、将軍家茂の滞京に関する直訴をしました。その後、彼らは会津藩まで来て、<このような暴挙にでたのは恐れ多いことである。最初は会津藩の許可を得てから老中に会いに行くつもりだったが、事態が切迫しているので直訴となってしまい申し訳ない>と詫びたそうです。建白書の内容は

「叡慮をもって大樹公御上洛の上、攘夷策略の御英断これあり候ことと、一統、大悦奉り候ところ、明23日、大樹公御東下のよし承り、驚き入り奉り候。大樹公、攘夷のため、しばらく洛陽に御滞留遊ばされるべき旨御沙汰につき、天下人心安穏に相成り候ところ、計らず、明23日、御下向の趣承り、天下安危このときに懸り、止むを得ず、毛塵の身を顧みず、愚按申上げ奉り候。もし、御下向遊ばされ候ては、天下騒然の時節、虚に乗じ、万一謀計し候者もはかりがたく候。なにとぞ、今しばらく御滞留遊ばされ、英夷拒絶応接(=生麦事件償金支払い拒否の交渉)、浪花において遊ばされ候ぎ然るべきと怖れながら存じ奉り候。さりながら、取捨も君公の思召ししだい、土木の身、及ばずことに候えども、尽忠報国、高下も御座なき候につき、この段、はばかりながら申上げ奉り候」(『会津藩庁記録』仮読み下しby管理人。引用は原文にあたってね)

*近藤勇書簡にも建白書の写しが収録されています。微妙に言葉の違うところがあります。管理人による素人口語訳⇒「私的資料集:近藤勇書簡(2)志大略認書」

●孝明天皇の反対
宵5ツ(午後8時頃)、将軍は慶喜・老中らとともに参内して、天皇学問所で再び孝明天皇と対面しました。(東帰の暇乞いに参内した説と、命じられて参内した説があります)

天皇が将軍滞京を強く求めたため、幕府は結局、滞京を請けました。(『七年史』によれば「大樹帰府の儀、再応相願候えども、帰府之有り候ては、如何様の変事も計り難く、左候はば、実以て一大事之儀故、深く宸襟を悩まされ候間、天下の為、且つは徳川家の為をも深く思召され候儀故、今暫く滞京之有り、攘夷基本相立ち、叡旨御貫徹、人心安堵の場合に至り候て、宸襟安じ奉り候様、周旋之有るべく、御沙汰の事」という沙汰があったそうです。ただし、『水戸藩史料』によれば、これは、議奏から水戸藩と尾張藩に下った沙汰書で、それにより、慶篤・慶勝が将軍に東帰中止を直諫したことになっています。う〜ん)

その後、小御所に場所を変えて、関白は、以下の旨を伝えました。

「滞京御請相成り候に付、摂海防禦等の儀、念入候様、仰せ出され候事」(『七年史』)

将軍らが御所を退出したのは明けて23日の九ツ半(午前1時頃)になっていたそうです。

●水戸藩に東帰・攘夷尽力の朝命
将軍が滞京を請けたことを受け、同日夜、朝廷は、水戸藩主徳川慶篤に対し、関東守衛のために速やかに東帰し、英国相手の攘夷に尽力するように命じました。

「大樹滞京の儀御請に相成候に付ては関東守衛の為下向仰せ出され候間、早々出府防禦手厚く相心得、自然英夷兵端開き候節は尽力決戦之有り候様御沙汰に候事」(『水戸藩史料下』。『七年史』では23日となっている)

水戸藩への朝命は、幕府の奏請(こちら)に即したものでした。

<ヒロ>
読む資料(特に会津資料とそれ以外)で微妙に動きが違うので、頭を整理するのに時間がかかりました^^;。頼りにしてきた越前藩の記録は春嶽が中央政局を去ったので使えないし、『伊達宗城在京日記』・『会津藩庁記録』は断片的で素人にはとても読みづらいです(涙)。

将軍東帰問題は生麦償金支払い問題とも絡み合っていて、しかも、関係者のスタンスが一定せず、わかりにくいですよね。とりあえず、22日前後のスタンスを表にまとめてみました。

会津藩と長州藩は東帰反対の強硬派という点では似ていますが、償金支払い問題ではまるで逆だということがわかると思います。また、長州藩や急進派公卿と残留浪士の主張が表面上は似通っていることも興味深いと思います。残留浪士は、当初は、将軍とともに東帰して攘夷をするつもりだったのですが、いつの時点からか摂海攘夷に転じています。恐らく18日に出た勅旨(将軍の東帰を留め、生麦事件交渉は大坂で行い、攘夷戦争になれば将軍が指揮をとるようにとの内容こちら)を受けて意見を変えたのだと思います。交渉を大坂で行うという点は偽勅だったわけですが、彼らには伝わっていなかった模様です。

水戸藩への朝命を見ていると、大坂に英国船を回して交渉をするという18日の勅(天皇の与り知らぬ偽勅こちら)は撤回されたようです。しかし、将軍や慶喜に対する戦争は好まないという天皇の直喩や戦争を回避するようにとの鷹司関白の直話は反映されておらず、むしろ開戦を前提としたものになっています。天皇は崇め奉られているものの、その意思が急進派と相反するときは、通らなくなっていることがわかると思います。

国是 将軍東帰に関するスタンス 償金問題に関するスタンス
孝明
天皇
破約
攘夷
滞京 将軍がいなくては心細いので。(
帰府すれば変事が起るかもしれない)
将軍らに戦争は好まないことを明言。(戦争回避
鷹司
関白
破約
攘夷
滞京 天皇の意思通り。(ただし、圧力に弱く、ふらふらする^^;) 将軍らに戦争回避を指示。
交渉は江戸で。
急進派公卿 破約
攘夷
滞京 将軍は摂海防禦を指揮すべき。 英国船を大坂に迎えて交渉。(摂海攘夷
慶喜&
老中
本音は
開国
東帰 口実は関東防衛の指揮。 交渉は江戸で。本音は償金支払&戦争回避
水戸 破約
攘夷
滞京 滞京の勅命を尊重。
将軍は京都守衛。
水戸藩主が将軍目代として帰府し、関東防衛を指揮。(横浜攘夷
会津 破約
攘夷
滞京 ・公武一和が成らぬうちの東帰は間隙を生じる。
・滞京の勅命尊重。
・従前、会津藩に将軍上洛・京都直接守衛の約束あり。
・交渉は江戸で。
・必要なら会津藩が関東防衛を指揮(横浜攘夷)。
長州 破約
攘夷
滞京 将軍は摂海防禦を指揮すべき ・英国船を大坂に迎えて交渉。支払不可(摂海攘夷
残留
浪士
破約
攘夷
滞京 公武一和が成らぬうちの東帰は間隙を生じる。 ・英国船を大坂に迎えて交渉。支払不可(摂海攘夷
東帰
浪士
破約
攘夷
横浜攘夷
*水戸藩と歩調が合っている

<おさらい:第1次将軍東帰運動>
○無理な攘夷期限と将軍滞京延期運動
将軍上洛前、尊攘急進派の仕切る朝廷から攘夷期限設定を迫られた将軍後見職一橋慶喜/在京幕府は、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、朝廷からもその旨の沙汰が下りました。この沙汰に従うと、3月4日に入京した将軍は3月14日に江戸へ向けて出立することになります。いったん帰府すると20日以内に攘夷の実効を挙げねばなりませんが、それはとうてい無理だというのが慶喜たちの認識でした。

危機的な状況を打開するために、慶喜が考えたことは、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の尽力に期待した滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)でした。ちょうど、江戸においては生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、英国が戦端を開く可能性や、摂海まで英国艦が押し寄せる可能性も危惧されたことから、3月8日、慶喜は、京都守衛のための将軍滞京と江戸防御のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請し(こちら)、11日には朝廷から「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京、攘夷防衛戦争の指揮のための(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の帰府を命じられました(こちら)。朝廷は、翌12日には慶喜・春嶽一方の両日中(3月14日まで)の退京・帰府を催促し(こちら)、14日には、鎖港交渉のために春嶽の帰府を命じました(こちら)

ところが、総裁職の春嶽は、公武一和の周旋に限界を感じて、9日に幕府に総裁職辞表を提出して引篭り中で、慶喜らの慰留にもこたえず(こちら)、15日には重臣を通じて朝命を断るよう求め、改めて辞職を再願しました(こちら)

○生麦事件償金交渉と将軍東帰運動への転換
そこへ、江戸からの使者が到着し、諸外国公使が、将軍滞京延期により幕府に疑念をもっており、さらに将軍辞任の風説を伝聞して、交渉相手の変更があれば本条約遵守もおぼつかないと不信感を募らせていると告げ、早々の将軍帰府を促しました(こちら)。在京幕府は、これを受けて、将軍の3月21日京都出立を内決し、使者を江戸に派遣して英国側に伝えさせました。こういう状況なので、21日以前に将軍東帰の許可を得ねば、英国人の不信をさらに買うことになります。(将軍東帰を決めた理由には、その外、(1)生麦事件の交渉が迫るというので、交渉決裂による戦を怖れて江戸・横浜市中が動揺し、それをきいた将軍随従の旗本・御家人が帰府を望んだ、及び(2)公武合体連合策がはかどらず、総裁職の春嶽が辞表を提出し、また、薩摩藩の島津久光がようやく上京したものの、その建白が容れられず、却って誹謗されて、退京の準備を始めたということもあったようです)。

○将軍滞留、三度の勅と東帰中止
3月17日、慶喜と老中が参内して、将軍東帰を奏請しましたが、朝廷は滞京して摂海に英国艦を迎え、攘夷を実行せよ、と東帰を認めず(こちら)、翌18日には(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、の勅旨を伝えました(こちら)

それではと、孝明天皇に直接東帰を請願するために、19日、将軍は慶喜らと参内しましたが、逆に、天皇から直接滞京を求められ、感激して東帰中止を回答してしまいました(こちら)。その折には、戦争は好まないとの直諭があり、摂海攘夷指揮は偽勅だということが判明しました。

幕府はあきらめませんでした。21日、慶喜は老中板倉勝静・水野忠精とともに、関白鷹司輔熙に面会し、<江戸では必ず外国との戦争になるだろうから将軍が直接指揮をしなくてはならない>と論じ、東帰を再願をしました。関白はもっともだと東帰を了承したものの、伝奏・議奏・国事掛にも諮った後で確答するから、とりあえず、東帰の準備を進めるように述べました。そこで、幕府は明後23日出立と決め、東帰の準備を始めていました(こちら


<おまけ>
残留浪士の上書は、会津藩庁記録では24名が出向いたことになっていますが、近藤が故郷に送った書簡「志大略相認書」によれば、芹沢・近藤らは18名連署の上書を持って老中の宿舎まで出向き、目通りを願い出て、議論をしたことになっています。公的記録である藩庁記録の方が正確だと思います。当事者の同時代書簡だからといって、事実を伝えているとは限らないということに、注意せねばな・・・とつくづく思います。この2つの同時代記録の人数の差・・・残留浪士組の派閥を示唆しているのかもしれません。(⇒「覚書」「名簿にみる残留浪士組の派閥抗争」準備中・・・と数年前から書いているのですが、興味が薄れてきたので、いつUPできるかわかりません^^;)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題」 ■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)
参考>『会津藩庁記録』一・『伊達宗城在京日記』・『七年史』一・『修訂防長回天史(第三編下)』・『徳川慶喜公伝』2(2000.5.2、2001.5.2、2003.5.10、2004.5.10)

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