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文久3年3月25日(1863年5月12日) 
【京】将軍目代水戸藩主徳川慶篤、生麦事件解決のため東帰
【京】残留浪士殿内義雄、近藤勇らに暗殺される

■生麦償金問題:水戸藩主徳川慶篤東帰
【京】文久3年3月25日、水戸藩主徳川慶篤(将軍後見職一橋慶喜の実兄)が将軍名代として生麦事件の交渉のために、家臣の大場一真斎とともに東帰しました

幕府は、生麦事件処置を理由に将軍東帰をはかっていましたが、3月22日、勅命を奉じて東帰をとりやめとなりました。その日のうちに、水戸藩に東帰・攘夷戦争指揮の朝命が降りており、(こちら)、翌23日には幕府も水戸藩に東帰・外国処置委任を達し、家老大場一真斎に慶篤に随従して帰府し、江戸警衛に当るよう命じました。(こちら) 24日、朝廷は、暇乞いに参内した慶篤に対して、将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました。一方、慶喜は大場に無謀の攘夷はせぬよういい含めています(こちら)。

さて、江戸に向うことになった慶篤は、京都守衛の為に、弟松平昭訓(余四磨)を残し、松平頼位(支藩宍戸藩主の父)、武田耕雲斎(家老)に補佐させることにしました。その他、鈴木縫殿、原市之進、梅沢孫次郎、山口徳之進、下野隼次郎、梶清左衛門、住谷寅之助らも残りました。残留した藩士は尊攘激派で、水戸藩が本国寺に宿陣していたことから、本国寺党と呼ばれました(当時、本国寺は西本願寺の北にありました)。また、山口・下野・住谷は清河八郎が水戸潜伏中に「尊攘の大義」について語った相手でもありました(覚書「浪士組と水戸藩(1)清河八郎と水戸激派の密接な関係)。横浜鎖港攘夷にも熱心だったはずですが、京都に残留することになりました・・・。東帰していたら、清河の進めていた横浜攘夷計画に積極的に参加したのでは・・・と思うのですが・・・・・・。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「水戸藩文久3年」■水戸藩かけあし事件簿

参考:『水戸藩史料』(2001.5.12, 2004.5.12、6.16)

■残留浪士
【京】同日、会津藩の本多四郎、望月新平、諏訪伝三郎、吉田源次郎、佐久間梯冶らが、壬生を訪れて、「関東浪士」らと壬生狂言を見物しました。このとき、会津藩からもらった手当金で、浪士は着物をあつらえており、同じ色の単衣ものを紋付に仕立てて着ていたそうです。

 ←壬生狂言(写真:HP「京都お散歩写真館」)

また、すでに京を発った清河へ国元から書簡がきているがどうすればよいかと芹沢が彼らに相談したともいいます。そして、その夜、殿内が、四条橋にて、斬り殺されました。(『世話集聞記』)

<ヒロ>

永倉新八の『顛末記』では、夏服がないので芹沢・近藤が大阪の鴻池で200両の押し借りをし、その金で大丸で羽織や紋附などをあつらえたということになっていて、会津藩はそれまで彼らに手当てを出していなかったかのように書かれているのですが、実際は、会津藩はお預りとなった浪士に手当てを出していました

清河八郎宛書簡に関する会津藩の相談相手が芹沢鴨であったことは、芹沢が彼らの中心人物であったこと、小説などのイメージと違って、きっちり事務的な話もできることがうかがえます。

さて、この本多四郎による『世話集聞記』には、彼らが会った浪士が記されていますが、その数は、芹沢・近藤派の17名。家里・殿内派は含まれていません。この17名は、3月10日に芹沢らが会津藩に残留の嘆願書を出したときと同じ顔ぶれでした(こちら)。そして・・・その夜に家里・殿内派の殿内が殺されたのでした。

近藤の書簡によれば
「既に同志のうち、失策などつかまつり候者はすみやかに天誅加え候。去る頃、同志殿内義雄と申す人、四月中、四条橋上にて討ち果たし候」(近藤勇「志大略相認書」)となっています。

関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)
(2000.5.12)

<参考>『会津藩庁記録』・『七年史』・『新撰組顛末記』・『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌』上

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