5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■旧参豫諸侯の帰国 【京】元治元年4月8日、朝廷は松平春嶽、島津久光、伊達宗城の帰国願いを許可しました。肥後藩主弟長岡良之助、備前藩主池田茂政の帰国も許可されました。 春嶽への書付
久光への書付
<ヒロ> 宗城は一足早い、7日夜、帰国が許可されています(こちら)。 参考:『続再夢紀事』三p99-100、『玉里島津家史料』ニp759、『維新史料綱要』五(2010/10/9) ■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮 【京】元治元年4月8日、水戸藩士梅沢孫太郎・原市之進が慶喜の用人見習になりました。 <ヒロ> 慶喜のリクエストによるものです(こちら)。彼らは、筑波で挙兵した水戸天狗党と同じ、水戸藩「激派」です。(在京水戸藩=本国寺党自体が、「激派」の集まりです) 参考:『維新史料綱要』五(2010/10/9) ■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き 【江】元治元年4月8日、留守老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭、連署して水戸天狗党の筑波挙兵を在京の政事総裁職・老中に報告し、小笠原長行の老中再任を求めました。また、水戸藩に鎮静の朝命が下るよう尽力を請いました。 書簡のポイントは以下の通り。(勝手に箇条書きしています)
参考:『水戸藩史料』下570-572 <ヒロ> 挙兵は3月27日です。前日に使者を京都に派遣したのが第一報になるのか、この書簡が先に着くのかわかりませんが・・・。ちょっと、幕府は、動きが鈍いのでは?当初、水戸藩内のできごととして一藩で処理させるつもりだったのが、筑波勢が宇都宮(日光東照宮)に向かったので、あわてて京都に報知って感じでしょうか??? 確かに、朝廷が水戸藩に鎮撫を命じれば、尊攘「激派」から成る天狗党に一定のインパクトを与える気がしますが・・・。でも、鎖港攘夷を実現しようと立ち上がり、この段階では武力衝突を起こしていない集団ですから、朝廷が鎮撫せよというかしらん。(それこそ、在京の水・因・備の激派たちが猛反発して、逆に攘夷の先鋒とせよ、って建言しそうです)。仮に、朝命がでたとしても、水戸藩保守派に利用されて、武力抗争となり、結局、直接朝廷に訴えようっていうことになった気がします。 【江】元治元年4月8日、水戸藩主徳川慶篤、執政武田耕雲斎が登城し、横浜鎖港断行なくして天狗党の鎮静は不可能だと説きましたが、老中たちは、鎖港交渉使節に任せるという請書方針を述べました。 この日、登城した慶篤は、幕府が横浜鎖港を断行しなければ、天狗党(筑波勢)は「同港へ暴発可致と之見込故」、鎖港断行なくして鎮静の手段はないと話したそうです。 老中たちは、耕雲斎に対して、「激徒共」が如何に「切迫」していようと、横浜鎖港については「今般の宸翰(こちら)御請(こちら)に基」いて取り計らうほかないとして、水戸藩の案を拒否し、鎮静を厳しく談じたそうです。( <ヒロ> お殿様も(この時点では)天狗党に同情的なようです。でも、幕府は、叡慮である横浜鎖港を本気で実行する気はないので(それなら開国論で押せばよかったのに、薩摩藩への嫌疑から、表向きは鎖港を請けてしまったという・・・)、水戸藩の建言に聞く耳もちません。ただ他人任せに鎮静せよというのみ。耕雲斎のことなんかは、どうせ天狗党の一味なんだろう、くらいに思ってるのじゃないかしらん。 参考:『水戸藩史料』下584-585(2010/10/9) 関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩・天狗争乱(元治1)」 おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」 ■その他の動き 【京】宗城、暇の挨拶のため、参内。伝奏野宮定功と京都に駐留させる人数について打合せ。(『伊』p421) 【天狗党】宇都宮藩家老、筑波勢の斎藤左次衛門・藤田小四郎らと今市宿で面会。石橋駅に退き、東照宮参拝は10人1組とし、宇都宮藩士教導の下にすることを要請。斎藤ら受諾。 【薩摩藩】長崎にて汽船翔鳳丸(英国船)購入(『維』五) |
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