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元治1年4月8日(1864年5月13日)
【京】朝廷、春嶽・久光・宗城、池田茂政、細川慶順・長岡良之助の帰国を許可
【京】水戸藩梅沢孫太郎・原市之進、慶喜の用人見習に
【江】留守老中、天狗党筑波挙兵を京都に報告。
水戸藩主徳川慶篤・武田耕雲斎、登城。横浜鎖港断行を建言。

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■旧参豫諸侯の帰国

【京】元治元年4月8日、朝廷は松平春嶽、島津久光、伊達宗城の帰国願いを許可しました。肥後藩主弟長岡良之助、備前藩主池田茂政の帰国も許可されました。

春嶽への書付
長々滞京御用精勤苦労思召候間、今度賜御暇候。但、猶人数残置、非常之節、禁闕警衛有之候様、御沙汰候事

久光への書付
永々滞京苦労被思召候間、今度御暇被下候。但、島津図書残置、非常之節禁闕警衛有之候様、御沙汰候事

<ヒロ>
宗城は一足早い、7日夜、帰国が許可されています(こちら)。

参考:『続再夢紀事』三p99-100、『玉里島津家史料』ニp759、『維新史料綱要』五(2010/10/9)

■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮
【京】元治元年4月8日、水戸藩士梅沢孫太郎・原市之進が慶喜の用人見習になりました。

<ヒロ>
慶喜のリクエストによるものです(こちら)。彼らは、筑波で挙兵した水戸天狗党と同じ、水戸藩「激派」です。(在京水戸藩=本国寺党自体が、「激派」の集まりです)

参考:『維新史料綱要』五(2010/10/9)


■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き
【江】元治元年4月8日、留守老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭、連署して水戸天狗党の筑波挙兵を在京の政事総裁職・老中に報告し、小笠原長行の老中再任を求めました。また、水戸藩に鎮静の朝命が下るよう尽力を請いました。


書簡のポイントは以下の通り。(勝手に箇条書きしています)
水戸藩潮来・玉造・小川の三館に集まっていた者の動静については、一昨6日までの事情は佐々木修輔(=町奉行・佐々木顕発)を以て報知した。
昨7日、戸田越前守(=宇都宮藩主)・井上伊予守(=下妻藩主)より届出があったので、両人とも在所に向かうよう申し渡した。
昨日、水戸殿(=徳川慶篤)が登城されたので、老中・三奉行・大目付・目付でお逢いして、鎮静の御見込みについて伺ったが、然るべく処置の御見込みはなく、差当り、御同家の若年寄両人へ直書の諭書を持たせて派遣することになった。
「彼等(筑波勢)之表に主張致候」は、「横浜鎖港及遅緩候を名と致候事に付」、暫時は鎮まっても、その後は又同様の騒ぎに及ぶことは目に見えている。
今後の動静によっては、無論、公辺が臨機の処置を講じるしかないが、(将軍の)御留守中にそのようなことにならぬようしたい。容易ならぬことなので、そちらでも一橋殿始め、篤と御評議の上、何とか鎮静のための手段を講じるようしたい。
在留のミニストル(=公使)等へ談判の上、何とか「処置替り候様之事も有之候」だが、なまじの事を申し出て、かえって「彼等之暴行有之」ということになっては、さらに「過激之輩之災を招」くかもしれない。御留守中に容易に談判も出来かねるが、先便にて報せたように、近々(外国公使と)応接のついでもあるので、事情は話して置くべきだと申し合わせている。修輔も不日着京すると思うが、「篤と東武内外之事情も御熟考」の上、御指図いただきたい。
右之者(=天狗党筑波勢)が万一日光へ参れば「不容易儀」なので、取敢えず、戸田越前守・土井大炊頭らへ早速、内達した。
兼ねてから願い出ていたように、小笠原図書頭(=小笠原長行)にの老中復職を命じてほしい。「水戸殿の御家にて人気立」ち、一つ間違えば「外国との関係と相成」、そうなれば「皇国之御一大事」である。とても「御心安く御滞京」はできず、昨春のように(=生麦事件賠償問題?)御当地が大騒動になっては、「御上洛も水之泡と相成、御基本も立兼、天下存亡之境」と存じる。我々ではとても御留守の大任は勤めかねるので、是非、「急速」に復職を命じてほしい。
別紙
「水戸表人気立候趣、大君御留守中事変有之候ては、不安宸襟候間、厚鎮静有之様、水戸殿へ御達有之候にとの御趣意、御所より以御書付、公辺へ被仰出、右を水戸殿へ御達申候はは鎮静之一助に可相成候」

参考:『水戸藩史料』下570-572

<ヒロ>
挙兵は3月27日です。前日に使者を京都に派遣したのが第一報になるのか、この書簡が先に着くのかわかりませんが・・・。ちょっと、幕府は、動きが鈍いのでは?当初、水戸藩内のできごととして一藩で処理させるつもりだったのが、筑波勢が宇都宮(日光東照宮)に向かったので、あわてて京都に報知って感じでしょうか???

確かに、朝廷が水戸藩に鎮撫を命じれば、尊攘「激派」から成る天狗党に一定のインパクトを与える気がしますが・・・。でも、鎖港攘夷を実現しようと立ち上がり、この段階では武力衝突を起こしていない集団ですから、朝廷が鎮撫せよというかしらん。(それこそ、在京の水・因・備の激派たちが猛反発して、逆に攘夷の先鋒とせよ、って建言しそうです)。仮に、朝命がでたとしても、水戸藩保守派に利用されて、武力抗争となり、結局、直接朝廷に訴えようっていうことになった気がします。

【江】元治元年4月8日、水戸藩主徳川慶篤、執政武田耕雲斎が登城し、横浜鎖港断行なくして天狗党の鎮静は不可能だと説きましたが、老中たちは、鎖港交渉使節に任せるという請書方針を述べました。

この日、登城した慶篤は、幕府が横浜鎖港を断行しなければ、天狗党(筑波勢)は「同港へ暴発可致と之見込故」、鎖港断行なくして鎮静の手段はないと話したそうです。

老中たちは、耕雲斎に対して、「激徒共」が如何に「切迫」していようと、横浜鎖港については「今般の宸翰(こちら)御請(こちら)に基」いて取り計らうほかないとして、水戸藩の案を拒否し、鎮静を厳しく談じたそうです。(

<ヒロ>
お殿様も(この時点では)天狗党に同情的なようです。でも、幕府は、叡慮である横浜鎖港を本気で実行する気はないので(それなら開国論で押せばよかったのに、薩摩藩への嫌疑から、表向きは鎖港を請けてしまったという・・・)、水戸藩の建言に聞く耳もちません。ただ他人任せに鎮静せよというのみ。耕雲斎のことなんかは、どうせ天狗党の一味なんだろう、くらいに思ってるのじゃないかしらん。

参考:『水戸藩史料』下584-585(2010/10/9)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱(元治1)
おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)

■その他の動き
【京】宗城、暇の挨拶のため、参内。伝奏野宮定功と京都に駐留させる人数について打合せ。(『伊』p421)
【天狗党】宇都宮藩家老、筑波勢の斎藤左次衛門・藤田小四郎らと今市宿で面会。石橋駅に退き、東照宮参拝は10人1組とし、宇都宮藩士教導の下にすることを要請。斎藤ら受諾。
【薩摩藩】長崎にて汽船翔鳳丸(英国船)購入(『維』五)

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