5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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元治1年4月7日(1864年5月12日)
【京】春嶽の守護職解任
【京】容保、守護職復職の幕命・容保、守護職辞表提出(1)
【京】水戸藩士勝野大助、越前藩中根雪江に対し、
水・因・備・尾・会と協調し、幕府に攘夷を実行させようと論ず
【京】会津藩士広沢安任、宗城に謁し、庶政委任の要を説き、建議を請う

☆京都のお天気:雨(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任

【京】元治元年4月7日、二条城において、春嶽の守護職解任及び非常時の越前藩の上京が命じられました。

                            松平大蔵太輔(=春嶽)    
御役御免相願候段、無拠儀ニ被思召候間、願之通御役御免被成候   
                            松平越前守(=茂昭)
其方儀、京師非常之御節、応援仰付、同氏大蔵太輔申談可相勤旨、被仰付之

<ヒロ>
○「京師非常之御節」
ここでいわれている京都の非常時としては、(1)長州藩及び同情的な勢力が何かことを起こすこと、(2)幕府との鎖港交渉次第で外国が艦船を大阪湾に進め、朝廷に砲艦外交を迫ること、などが想定されているのではと思います。

参考:『続再夢紀事』三p94(2010/10/8)
■容保の守護職再任
【京】元治元年4月7日、二条城において、容保の守護職復職及び軍事総裁職罷免が命じられました。

この日、老中水野忠精から家老を名代として登城させるようにとの命があり、神保内蔵之助(修理が登城したところ、大広間二の間において、以下の辞令が付与されました。

                           松平肥後守
京都守護職申付、如前々格別精入、可相勤候。軍事総裁職之儀は差免す。

容保は病床にあることを理由に(「不軽病、今以、平臥罷有、急速全快之様態不相見」)直ちに辞退書を提出させました。神保が登城して水野老中に提出しましたが、水野は「慰諭」して受理しませんでした。

参考:『七年史』ニp86-87

<ヒロ>
○禁裏守衛総督の沙汰書との違い
慶喜の禁裏守衛総督任命時、幕府が出した沙汰書は朝命をそのまま取り次ぐものでした(こちら)。容保の守護職復職も、朝廷の沙汰に基づくものではありますが、明らかに幕府が命じる形になっています。守護職は幕府の役職であることので当然といえば当然ですが、禁裏守衛総督というポストがいかに特殊かということがここからもわかると思います。

○守護職復職
会津藩は、容保の病を理由として、国力疲弊につながる守護職復職に抵抗し続けていましたが、3月28日には、慶喜の禁裏守衛総督就任に伴う慶喜への不安(不信?)をきっかけに、幕府に対し、内命辞退の願書も提出していました(このときも、口実は容保の病でした)(こちら)。しかし、幕府は動かされませんでした。そんなわけですから、今更、同じ理由で辞退を願い出ても、きいてもらえるとは思えないです・・・。

容保の守護職復帰は孝明天皇の叡慮でした。でも、会津藩って、2月16日の孝明天皇の宸翰に対して、守護職を解任されてもなお復職を望まれるのは「冥加至極」で、長く簾下に留まることは自ら「懇願」するところだとか、進退は自分では何とも言いがたいが、「聖慮台命」があれば間違いなく「遵奉」する・・・と返答していたのです(こちら)。いってみれば、自らの言葉の責任をとるはめになってる感じがします・・・。

○軍事総裁職の後継は?
後継者は任命されませんでした。もともと、容保は守護職更迭時には陸軍総裁職を命じられており(こちら)、数日後に軍事総裁職を命じられたという経緯があります(.こちら)。軍事総裁職が、容保向けのポストだったということがよくわかると思います。

○征長副将の後継は?
最初、容保が守護職を更迭されたのは、征長戦の副将に擬されたためでした(こちら)。この後、結局、容保が(抵抗むなしく)守護職に復職したため、11月に開始された征長戦の副将は越前藩主の松平茂昭(春嶽の養子)が務めました。

(2010/10/8)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題

<おさらい>
◆1/9 ・参豫諸侯の集会にて、容保を征長軍副将に、春嶽を京都守護職にとの話が出る。
◆2/11 ・幕府、容保の守護職を更迭し、陸軍総裁職と征長軍副将に任命
◆2/15 ・幕府、春嶽を守護職に任命。春嶽、参豫諸侯の幕政参加による「政体一新」を主張
◆2/16 ・参豫諸侯の御用部屋入り。慶喜、これを春嶽が「守護職の威に乗」じて「決断」したものだとし、「徳川家の紀律今日より相崩れ申候」と嘆く
・容保、軍事総裁職(陸軍総裁職から改称)を請ける。
・孝明天皇、容保に、「事済後」の守護職復帰を望む宸翰を送る。
◆2/23 ・中川宮、伊達宗城に「春岳守護職も不宣」と話す。
◆2/24 二条関白、慶喜に容保の守護職復職の沙汰を伝える
◆3/1 ・春嶽、朝廷尊奉と政体一新を幕府に建議
◆3/8 ・越前藩、幕政一新のため、春嶽が慶喜に奮発・担当を勧告すべきと決める
◆3/9 ・二条関白、慶喜に対し、「叡慮」にも関らず容保の守護職復帰が遅れている理由を質す。慶喜、容保の病を理由に挙げる。
◆3/11 ・春嶽、8日の藩議に基づき、慶喜に幕政一新を説く。慶喜、「冷淡」な対応。
◆3/13 越前藩、 幕政一新が一向に実現しないので、春嶽の守護職辞任・帰国を内決する。幕府に対し、藩兵到着まで従来通りの会津藩による京都警衛を要請。
・一橋家用人、会津藩藩士に容保の守護職復帰を打診。会津藩、容保の病を理由に守護職復帰辞退を周旋することを決める
◆3/15 越前藩、慶喜・中川宮に守護職辞退の意を伝える。中川宮、当惑。薩越退京後の政情(水・因・備の勢力拡大)を危惧。
・川越藩(総裁職松平直克が当主)、春嶽に対する朝幕の不評判を越前藩に伝え、守護職辞任を忠告
◆3/17 ・春嶽、総裁職に守護職辞任の内願書を提出。川越藩家老、越前藩用人に幕閣・慶喜の越前藩への猜疑について語る。
◆3/18 ・春嶽、慶喜に守護職辞任の内願書を提出
・二条関白、会津藩に春嶽の守護職辞退を伝え、容保の守護職復帰受諾を強く促。会津藩、容保の快気までは何ともいえないと返答することに決める。
・春嶽、慶喜が禁裏守衛総督に就任すれば「守護職無之候而も宣敷」と宗城に書く。
◆3/19 ・所司代、会津の警衛箇所の越藩への引渡し見合わせを通達
◆3/21 春嶽、守護職辞表を正式に幕府に提出
・二条関白、慶喜&総裁職に対し、春嶽の守護職辞表を許容せぬよう幕府に伝える。
◆3/22 ・川越藩、越前藩に二条関白が幕府に春嶽の守護職解免を許可せぬよう求めてきたと報知。会津の入説の結果だと思われるので、春嶽側も朝廷に入説すべきだと勧める。
・中川宮・近衛前関白、慶喜への不信感から春嶽の守護職留任を希望すること、越前・会津の両藩に守護職を命ずる話がでていることを宗城・久光に伝える宗城、両藩が守護職を務めるのは「可然」と勧める。
◆3/23 ・一橋家用人、二条関白に対し、容保の快気までの春嶽留任を入説。
・越前藩、二条関白に対し、春嶽の辞職許容を入説。関白、「板挟み」だと当惑。
・一橋家用人、春嶽に容保の快復までの辞職猶予を求める。また、「摂海築造」担当ポストを提案する。春嶽、不興を示す。
・朝議、会津藩・越前藩両藩に守護職を命じることに決まる(&朝廷の方針転換)
◆3/24 朝廷、幕府に対し、会津藩・越前藩両藩を守護職にせよとの沙汰を下す
◆3/26 ・越前藩、中川宮・近衛前関白・野宮伝奏に辞職許容を入説。中川宮、慶喜への懸念を話し、春嶽の留任を求める。
・一橋家用人、越前藩に幕府は守護職解任の方針を決めると伝える。
・朝議、中川宮らの主導で、守護職は会・越両藩にとの結論
◆3/27 ・慶喜、春嶽に前日の朝議の厳しさを語り、辞職再考を促すが、春嶽は「覆水盆に復らず」と拒否。
・長岡良之助、中川宮が辞職許容との知らせをもたらし、慶喜も許容。
・宗城、中根雪江を呼び出し、中川宮らが慶喜への懸念からの留任を望むことを伝えるが、長岡の話を聞いて辞任に同意。
◆3/28 ・中川宮、春嶽の留任を断念。代わりに滞京を強く求める
・容保、病を理由に軍事総裁職辞職&守護職再任辞退を内願(実は、慶喜の禁裏守衛総督就任への不安)
◆3/29 ・春嶽、藩士中根・酒井を議奏正親町三条実愛に遣わし、辞職許容を入説
◆3/30 ・宗城、慶喜に対し、春嶽辞職後は急変時の上京が適切と主張
◆4/1 ・春嶽、慶喜に書面を以て速やかな辞職の周旋を求める
◆4/2 ・慶喜、春嶽への返書にて辞職後の日々登城を要請
◆4/4 ・久光、春嶽の辞任許容+容保の任命(軍事総裁職罷免)の情報を得る
◆4/6 ・慶喜、春嶽に守護職解免&非常時上京の沙汰書案提示&辞職後の日々登城要請
◆4/7 ・幕府、春嶽に守護職解任&非常時の上京、容保に京都守護職復職を命じる
・容保、守護職辞表提出(1)不受理

■庶政委任
【京】元治元年4月7日、会津藩士公用方・広沢富次郎(安任)が、宗城に謁し、庶政委任を朝廷へ建議するよう請いました。

この日、宗城を訪ねた広沢は「朝廷にて幕府へ御まかせ候ハハ可然主意、殿下御始へ申述候頼」んだそうです。

<ヒロ>
なぜに宗城???春嶽とは、やはり守護職をめぐって、会津藩・越前藩に微妙な空気があったのでしょうか。(このところ、登城・参殿を見合わせていたのもあると思いますが)。

○おさらい
前年(文久3年)の将軍上洛時、当時後見職の慶喜が庶政委任の勅を得ようと周旋しましたが(こちら)、結局得られた勅書は、征夷については幕府に任せるが、国事は事柄によっては直接諸藩に沙汰をするというものでした(こちら)

参考:『伊達宗城在京日記』p420(2010/10/8)
関連:■テーマ別文久3:「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)

■旧参豫諸侯の帰国
【京】元治元年4月7日夜、伊達宗城に帰国が許可されました。

伝奏野宮定功から留守居が呼び出され、下記の書付が渡されました。

長々滞京御用勤仕苦労思付(ママ)候。老父所労之由、賜御暇候。但、猶人数残置、禁闕非常之警衛有之候様、御沙汰候事

<ヒロ>
実は、5日、国許から先代伊達宗紀(だて・むねただ)が「不例」だという連絡が入り、看病願を別途野宮に提出し、中川宮にも根回しをしていました。それで、春嶽らより一足早い帰国許可になったようです。

参考:『伊達宗城在京日記』p421(2010/10/8)
■在京水戸藩士の攘夷論&横浜鎖港問題
【京】元治元年4月7日、水戸藩士勝間大助が越前藩を訪れ、応対した中根雪江に、水戸・因幡・備前・尾張・会津と協調して幕府に鎖港攘夷を実行させようと論じました。これに対し、中根は積極開国を論じるも、勝間は了解しませんでした。

勝間大助は大野謙介の書簡を見せて話しを始めたそうです。
両者のやり取りはこんな感じでした。
勝野 目下、「天下の人心甚た切迫に及」んでおり、「到底攘夷にあらされハ鎮壓」しがたい。
此際、「術策を用いて」でも幕府に攘夷を実行させようと思い、既に、因幡・備前・水戸・尾張の四藩は「心を協はせて其挙に及」ぶことに決した。
しかし、薩摩藩は挙に同意しないばかりか、「専ら奸謀を運らし」ており、現に長州の件では、「悪ミを幕府と守護職に帰せしめ、自藩ハ傍観の位地に立」っておる。これが堂々たる大藩の「宜しくすへき所」ではなく、今日、「天下挙て薩の為るところを悪」んでいる。
会津などは、昨年来共に謀るところがあるのにも関らず、今日、(薩摩から)「大に其欺を受たる事を悟」り、却ってこれを「憤り」、水戸の議論に賛同するに至った。
春嶽公は戊午の頃の御意見と反して、「今日ハ専ら開港説を唱」えておられるとか。誠に残念である。篤と御勘考あり、旧事の御意見に復され、攘夷説に賛同されん事を希望する。
中根 「万国互ニ好ミを通して有無を貿易するハ天理の自然に基くもの」であり、我が藩では去る丙辰(安政3年)頃より、既にその意見を更め、「彼(=外国)の長を採りて我短を補」い、「国を開らき国威を世界に輝かす」ことで一決している。
勝野 (終に了解しなかった)
中根 見識を異にする上は、共に議するのも無用であろう。
勝野 (「快々として」立ち去った)

参考:『続再夢紀事』三p97−98

<ヒロ>
やっぱり、水戸藩てば、因幡・備前と組んで横浜鎖港を幕府に実行させるべく企んで(!)いたのですねー。宗城がきいたら「ほらみろ」って反応じゃないでしょうか。でも・・・尾張も「グル」だったとは!(在京中の徳川慶勝の母は7代水戸藩主徳川 治紀の娘ですが・・・そういう関係?)えー?会津もですか?(会津はもともと鎖港攘夷だし、容保は慶勝の弟ですから、尾張あたりから入説されたんでしょうか??) いったい、どういう「術策」を考えていたのか、気になります・・・。

なお、大野謙介は 文久3年1月に京都の翠紅館で行われた長州藩・土佐藩・肥後藩・水戸藩などのの尊攘激派会合(こちら)に参加した水戸藩「激派」の一人です。中根と平行線になっても無理はないというか・・・。

追加:『維新史料綱要』に、この年の3月18日、東山曙亭にて、尾張・水戸・加賀・筑前・備前・因幡・津藩・桑名等の在京諸藩士、及び尾張藩附家老成瀬正肥の家士が攘夷を議したとあるので、そのときに何か話し合いでもあったんでしょうか??

○伊東のこと
中根のいっている越前藩の藩論(積極開国による国力の強化)って、やっぱり伊東の「大開国大強国」と路線が同じなんですよねー。といっても、伊東は天狗党の応援を考えていたくらいですから、この頃は単純な鎖港攘夷派だったと思われます。上京後に、色々な人と話しをしたり、諸国に出張にいって見聞を深め、考えを発展させていったようです。独自に考えを発展させたのか、あるいはどこかで大開国論者と接触があったのか・・・?越前藩と接触があったら意気投合して面白かったと思うのですが、残念ながら、今のところ、越前藩の記録に伊東の名前がでてくるのは、慶応3年11月の伊東暗殺後のことです。同月24日、薩摩藩吉井幸輔が中根を訪ねて、公議による王政復古を急ぐ必要について語った後、「甲子太郎暗殺なども惜しむべき事にて、彼は頗る有志にて、先達の建白(こちら)などは、一々尤も至極同論の事」と言ったとか(こちら)。惜しい・・・。
(2010/10/8)

関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 

■山陵奉行
【京】元治元年4月7日、所司代稲葉正邦は、武家伝奏に対し、朝廷に任命された山陵奉行につき、今後幕府の指揮を受けさせ、後任の任命は幕府が行いたいと申し入れました。

参考:『維新史料綱要』五(2010/10/8)

<ヒロ>
山陵奉行は朝廷の任命によって元宇都宮藩家老戸田忠至が務めている新設のポストです。同じく朝廷から任命された禁裏守衛総督同様、朝臣色の濃いポストだったといえると思います。少なくともこの時点まで、山陵奉行は朝廷の指揮下にあったことが所司代の申し入れからわかりますし、山陵奉行には、朝廷から御手当として二百人扶持下されていたそうです(『史談会速記録』)から、禁裏守衛総督より、朝臣色が強いかも・・・?

【江】幕府、関東諸藩に天狗党警戒を命ず/宇都宮藩主戸田忠恕、浪士の宇都宮屯集を幕府に報せ、帰藩を請う【天狗党】宇都宮出発

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