5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:雨(久光の日記より) ■春嶽の守護職辞任 【京】元治元年4月7日、二条城において、春嶽の守護職解任及び非常時の越前藩の上京が命じられました。
<ヒロ> ○「京師非常之御節」 ここでいわれている京都の非常時としては、(1)長州藩及び同情的な勢力が何かことを起こすこと、(2)幕府との鎖港交渉次第で外国が艦船を大阪湾に進め、朝廷に砲艦外交を迫ること、などが想定されているのではと思います。 参考:『続再夢紀事』三p94(2010/10/8) ■容保の守護職再任 【京】元治元年4月7日、二条城において、容保の守護職復職及び軍事総裁職罷免が命じられました。 この日、老中水野忠精から家老を名代として登城させるようにとの命があり、神保内蔵之助(修理が登城したところ、大広間二の間において、以下の辞令が付与されました。
容保は病床にあることを理由に(「不軽病、今以、平臥罷有、急速全快之様態不相見」)直ちに辞退書を提出させました。神保が登城して水野老中に提出しましたが、水野は「慰諭」して受理しませんでした。 参考:『七年史』ニp86-87 <ヒロ> ○禁裏守衛総督の沙汰書との違い 慶喜の禁裏守衛総督任命時、幕府が出した沙汰書は朝命をそのまま取り次ぐものでした(こちら)。容保の守護職復職も、朝廷の沙汰に基づくものではありますが、明らかに幕府が命じる形になっています。守護職は幕府の役職であることので当然といえば当然ですが、禁裏守衛総督というポストがいかに特殊かということがここからもわかると思います。 ○守護職復職 会津藩は、容保の病を理由として、国力疲弊につながる守護職復職に抵抗し続けていましたが、3月28日には、慶喜の禁裏守衛総督就任に伴う慶喜への不安(不信?)をきっかけに、幕府に対し、内命辞退の願書も提出していました(このときも、口実は容保の病でした)(こちら)。しかし、幕府は動かされませんでした。そんなわけですから、今更、同じ理由で辞退を願い出ても、きいてもらえるとは思えないです・・・。 容保の守護職復帰は孝明天皇の叡慮でした。でも、会津藩って、2月16日の孝明天皇の宸翰に対して、守護職を解任されてもなお復職を望まれるのは「冥加至極」で、長く簾下に留まることは自ら「懇願」するところだとか、進退は自分では何とも言いがたいが、「聖慮台命」があれば間違いなく「遵奉」する・・・と返答していたのです(こちら)。いってみれば、自らの言葉の責任をとるはめになってる感じがします・・・。 ○軍事総裁職の後継は? 後継者は任命されませんでした。もともと、容保は守護職更迭時には陸軍総裁職を命じられており(こちら)、数日後に軍事総裁職を命じられたという経緯があります(.こちら)。軍事総裁職が、容保向けのポストだったということがよくわかると思います。 ○征長副将の後継は? 最初、容保が守護職を更迭されたのは、征長戦の副将に擬されたためでした(こちら)。この後、結局、容保が(抵抗むなしく)守護職に復職したため、11月に開始された征長戦の副将は越前藩主の松平茂昭(春嶽の養子)が務めました。 (2010/10/8) 関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」 <おさらい>
■庶政委任 【京】元治元年4月7日、会津藩士公用方・広沢富次郎(安任)が、宗城に謁し、庶政委任を朝廷へ建議するよう請いました。 この日、宗城を訪ねた広沢は「朝廷にて幕府へ御まかせ候ハハ可然主意、殿下御始へ申述候頼」んだそうです。 <ヒロ> なぜに宗城???春嶽とは、やはり守護職をめぐって、会津藩・越前藩に微妙な空気があったのでしょうか。(このところ、登城・参殿を見合わせていたのもあると思いますが)。 ○おさらい 前年(文久3年)の将軍上洛時、当時後見職の慶喜が庶政委任の勅を得ようと周旋しましたが(こちら)、結局得られた勅書は、征夷については幕府に任せるが、国事は事柄によっては直接諸藩に沙汰をするというものでした(こちら)。 参考:『伊達宗城在京日記』p420(2010/10/8) 関連:■テーマ別文久3:「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)」 ■旧参豫諸侯の帰国 【京】元治元年4月7日夜、伊達宗城に帰国が許可されました。 伝奏野宮定功から留守居が呼び出され、下記の書付が渡されました。
<ヒロ> 実は、5日、国許から先代伊達宗紀(だて・むねただ)が「不例」だという連絡が入り、看病願を別途野宮に提出し、中川宮にも根回しをしていました。それで、春嶽らより一足早い帰国許可になったようです。 参考:『伊達宗城在京日記』p421(2010/10/8) ■在京水戸藩士の攘夷論&横浜鎖港問題 【京】元治元年4月7日、水戸藩士勝間大助が越前藩を訪れ、応対した中根雪江に、水戸・因幡・備前・尾張・会津と協調して幕府に鎖港攘夷を実行させようと論じました。これに対し、中根は積極開国を論じるも、勝間は了解しませんでした。 勝間大助は大野謙介の書簡を見せて話しを始めたそうです。 両者のやり取りはこんな感じでした。
参考:『続再夢紀事』三p97−98 <ヒロ> やっぱり、水戸藩てば、因幡・備前と組んで横浜鎖港を幕府に実行させるべく企んで(!)いたのですねー。宗城がきいたら「ほらみろ」って反応じゃないでしょうか。でも・・・尾張も「グル」だったとは!(在京中の徳川慶勝の母は7代水戸藩主徳川 治紀の娘ですが・・・そういう関係?)えー?会津もですか?(会津はもともと鎖港攘夷だし、容保は慶勝の弟ですから、尾張あたりから入説されたんでしょうか??) いったい、どういう「術策」を考えていたのか、気になります・・・。 なお、大野謙介は 文久3年1月に京都の翠紅館で行われた長州藩・土佐藩・肥後藩・水戸藩などのの尊攘激派会合(こちら)に参加した水戸藩「激派」の一人です。中根と平行線になっても無理はないというか・・・。 追加:『維新史料綱要』に、この年の3月18日、東山曙亭にて、尾張・水戸・加賀・筑前・備前・因幡・津藩・桑名等の在京諸藩士、及び尾張藩附家老成瀬正肥の家士が攘夷を議したとあるので、そのときに何か話し合いでもあったんでしょうか?? ○伊東のこと 中根のいっている越前藩の藩論(積極開国による国力の強化)って、やっぱり伊東の「大開国大強国」と路線が同じなんですよねー。といっても、伊東は天狗党の応援を考えていたくらいですから、この頃は単純な鎖港攘夷派だったと思われます。上京後に、色々な人と話しをしたり、諸国に出張にいって見聞を深め、考えを発展させていったようです。独自に考えを発展させたのか、あるいはどこかで大開国論者と接触があったのか・・・?越前藩と接触があったら意気投合して面白かったと思うのですが、残念ながら、今のところ、越前藩の記録に伊東の名前がでてくるのは、慶応3年11月の伊東暗殺後のことです。同月24日、薩摩藩吉井幸輔が中根を訪ねて、公議による王政復古を急ぐ必要について語った後、「甲子太郎暗殺なども惜しむべき事にて、彼は頗る有志にて、先達の建白(こちら)などは、一々尤も至極同論の事」と言ったとか(こちら)。惜しい・・・。 (2010/10/8) 関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 ■山陵奉行 【京】元治元年4月7日、所司代稲葉正邦は、武家伝奏に対し、朝廷に任命された山陵奉行につき、今後幕府の指揮を受けさせ、後任の任命は幕府が行いたいと申し入れました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/10/8) <ヒロ> 山陵奉行は朝廷の任命によって元宇都宮藩家老戸田忠至が務めている新設のポストです。同じく朝廷から任命された禁裏守衛総督同様、朝臣色の濃いポストだったといえると思います。少なくともこの時点まで、山陵奉行は朝廷の指揮下にあったことが所司代の申し入れからわかりますし、山陵奉行には、朝廷から御手当として二百人扶持下されていたそうです(『史談会速記録』)から、禁裏守衛総督より、朝臣色が強いかも・・・? 【江】幕府、関東諸藩に天狗党警戒を命ず/宇都宮藩主戸田忠恕、浪士の宇都宮屯集を幕府に報せ、帰藩を請う【天狗党】宇都宮出発 |
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