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文久3年3月20日(1863年5月7日) 
【京】後見職一橋慶喜、生麦事件償金支払の沙汰書を求めるが下付されず
【京】公卿中山忠光京都を出奔
【京】春嶽辞任:解職の沙汰の有無にかかわらず明21日の退京を決める

■将軍東帰&生麦事件賠償
【京】文久3年3月20日、後見職一橋慶喜は生麦事件償金支払いに関する沙汰書交付を願い出ました。

前19日、参内した将軍徳川家茂に対する孝明天皇の直喩は「戦争ハ御好不被遊候由」であり、関白鷹司輔熙からも、慶喜に対し、償金支払いは幕府に委任しているので「以心伝心処置之有不苦」等々の直話がありました(こちら)。これを受け、二条城では、慶喜・老中から大小目付等まで集って償金支払いについて評議が行われました。(『伊達宗城在京日記』)

慶喜は、償金を支払えば議論がおきることは必然であり、天皇の言に従って処置すれば後害を招くかねないと懸念し、朝廷から沙汰書を得ようと参内しました。しかし、沙汰書を得ることはできませんでした。(『七年史』)

<ヒロ>
関白は、急進派公卿を慮って沙汰書を出すことができなかったのでしょうか・・・。孝明天皇も、偽勅が出ていると知っても、関係者を処罰することができない状況です。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題
参考:『伊達宗城在京日記』、『七年史』2004.5.8

【京】文久3年3月20日、公卿中山忠光が出奔しました。

忠光は、途中で長州藩の久坂玄瑞・入江九一と会い、21日、ともに同藩大坂屋敷に入りました。忠光は、<幕府が尊王攘夷を奉じたことは未だ信用ができず、大坂で有志を糾合するつもりである。事が叶わねば九州に赴くのもよい>と述べたそうですが、久坂らはこれを危ぶみ、忠光に入江をつけて、海路長州に向わせました。忠光は同月27日に萩に到着し、前田孫右衛門邸に入りました。

なお、忠光は、出奔前の3月13日夜、中川宮を刺すために同邸に侵入したが果たせず、逃走したという風説がありました。

参考:『修訂防長回天史 第三編下』・『伊達宗城在京日記』 2004.5.8

■春嶽辞任
【京】文久3年3月20日、政事総裁職の松平春嶽は、解任の沙汰の有無にかかわらず、明21日に帰国することを決めました

春嶽は3月9日(こちら)、さらに15日(こちら)に辞表を提出して以来、その裁可を求めていましたが、なかなか許されませんでした。それで、18日、解任を待たずに直ちに帰国しようと決意し、その旨を慶喜に申し入れたところ、21日には解任の沙汰が下りるようにするのでそれまで待つよう要請されたので、一時帰国を見合わせました(こちら)

依然、沙汰が下りないので、春嶽は、この日、家老本多飛騨・岡部豊後を老中板倉勝静に遣わして、明21日の出立を申し立てさせました。すると、板倉は、とにかく解任の沙汰があるまで出発を見合わせるよう諭しました。

そこで、両名は帰邸して春嶽に復命後、評議にかけたところ、<「幕議ハ例の優柔不断にて」解職の沙汰が出ないのだろう、いつまで待てば御沙汰があるのか知れぬので、「少しく過激」だが、やはり御沙汰の有無にかかわらず速やかに帰国するほかない>という結論になりました。これを春嶽に言上したところ、「過激に渉る」のは好ましくないが、といって「際限なく引留められては迷惑」だと、ついに明21日払暁の出立を決めました。

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任
参考:『続再夢紀事』一p432-433(2012/4/30)

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