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文久3年3月18日(1863年5月5日) 
【京】将軍東帰:将軍東帰抑留&大坂で生麦事件交渉の沙汰/
【京】親兵:幕府、御守衛兵設置の布告
【京】公武合体派退京:薩摩藩国父島津久光退京
【京】春嶽辞任:越前藩、幕府に帰国方針を告げる

■将軍東帰問題
【京】文久3年3月18日、朝廷は、幕府に対し、(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、の勅旨を伝えました

勅旨の大意は次の通り
[英夷」が渡来して関東の事情が切迫しているので将軍が帰府して直接防御にあたりたいというのはもっともだが、京都ならびに近海の守備・警衛の策略は将軍の指揮を必要とする。また攘夷決戦には君臣の一和がなくては行い難いのに、将軍が関東に帰府し、東西に離れては、君臣の情が通じず、天下の形勢を救うことができなくなる。
叡慮が非常に不安であるので、滞在して京都と近海守衛の計画を立て、宸襟を安んじるように。
また、英夷との応接については、大坂港へ回航させて拒絶の交渉を行うように。もし戦争になるならば、将軍自ら出陣して指揮をとれば、皇国の元気を挽回する機会であると思し召されている。
関東の防御のごときは、しかるべき人物を選んで申し付けるように
(出所:『続再夢紀事』より口語訳、箇条書きbyヒロ)

*勅旨の日付は17日としてある資料(『七年史』・『京都守護職始末』)もあります。


<おさらい>
将軍上洛前、尊攘急進派の仕切る朝廷から攘夷期限設定を迫られた将軍後見職一橋慶喜/在京幕府は、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、朝廷からもその旨の沙汰が下りました。この沙汰に従うと、3月4日に入京した将軍は3月14日に江戸へ向けて出立することになります。いったん帰府すると20日以内に攘夷の実効を挙げねばなりませんが、それはとうてい無理だというのが慶喜たちの認識でした。危機的な状況を打開するために、慶喜が考えたことは、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の周旋に期待した滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)でした。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、3月8日、慶喜は、京都守衛のための将軍滞京と江戸防御のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請し(こちら)、11日には朝廷から「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京(ただし、慶篤ではなく慶喜か春嶽の帰府)の沙汰を得ました(こちら)

ところが、15日に江戸からの使者が到着し、諸外国公使が、将軍滞京延期により幕府に疑念をもっており、さらに将軍辞任の風説を伝聞して、交渉相手の変更があれば本条約遵守もおぼつかないと不信感を募らせていると告げ、早々の将軍帰府を促しました(こちら)。在京幕府は、これを受けて、将軍の21日京都出立を内決し、使者を江戸に派遣して英国側に伝えさせました。(将軍東帰を決めた理由には、その外、(1)生麦事件の交渉が迫るというので、交渉決裂による戦を怖れて江戸・横浜市中が動揺し、それをきいた将軍随従の旗本・御家人が帰府を望んだ、及び(2)公武合体連合策がはかどらず、総裁職の春嶽が辞表を提出し、また、薩摩藩の島津久光がようやく上京したものの、その建白が容れられず、却って誹謗されて、退京の準備を始めたということもあったようです)。

こういう状況なので、21日以前に帰国の暇を得ねば、英国人の不信をさらに買うことになります。それで、前17日、慶喜と老中が参内して、東帰を奏請していました。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題
参考:『続再夢紀事』一p426-428(2012/4/30)

■親兵設置
【京】文久3年3月18日、御守衛兵(親兵)設置が幕府より布告されました(10万石以上の大名に対し、一万石あたり一人)。

この布告は、14日に伝奏が伝えた<名目は御守衛でもよいので、10万石の大名から人数をさしだすよう、申達すべし>という親兵設置の命(こちら)を請けたもので、十万石以上の大名に対し、<一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように>と通達したのでした。

名義を御守衛にしたのは、会津藩の<親兵を設置すれば、皇宮の警護は諸藩の任となり、京都守護職は京都市中の警護役に過ぎなくなり、これでは幕府が守護職を置いた意味がない。会津一藩を親兵にするものであり、諸藩から献ずる兵は、守衛兵としてほしい>という議論を受けたものだそうです。

そういうわけで、会津藩は、全藩が親兵であるという理由で、御守衛兵として特別に藩士を献じることはありませんでした。なお、4月3日には、親長州・尊攘急進派公卿、三条実美が京都御守衛御用掛に任命され、御守衛兵の長となりました。

●おさらい:親兵設置
御所(皇居・公家居住地)の警護は、従来、所司代の主導下、近畿諸藩が行ってきました。しかし、文久2年になって、諸藩−特に長州藩−の中から親兵を徴するという議論が起り、10月5日、薩長土の有志が親兵設置を建議しました(こちら)。これを受けた朝廷では、11月の勅使東下の際、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰を伝えました(こちら)。幕府は、諸藩に京都守護の主導権を奪われることや朝廷の兵権回復を恐れ、寄せ集めとなる親兵は実効がないと、12月5日、親兵設置は請けませんでした(こちら)。もちろん、京都守護職に命ぜられ、一藩をもって親兵として京都守護にあたる決意の会津藩も、親兵設置には猛反対でした。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しました(こちら)

その後、将軍上洛を前に、親兵設置の議論はますます高まり、文久3年2月22日(21日?)、先発上京していた後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。一方、朝議を支配している急進派の国事寄人は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、御所内に宿舎を設けて日々鍛錬させること、草莽のうち有為な者も召し出ささせること、親兵は御所の守衛を職掌とし、その他の警衛は従来通り諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、を主張しました(こちら)

同年2月27日、慶喜と総裁職松平春嶽は、参内し、国事掛と議論をしましたが結着せず、終には親兵設置の可否は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを具申し、了承を得ました。ところが、その夜、朝廷は、突然、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。急進派の主導で出されたもので、実質的な親兵設置の沙汰でした(こちら)。次いで28日、長州藩が、親兵に藩士(一万石あたり一人:合計37名)を献じたいと請願し(こちら)、3月6日、朝廷は、幕府の反対を押し切る形で、これを許しました。

将軍は3月4日に上洛しましたが、幕府は、未だ親兵設置を請けていませんでした。14日、ついに朝廷は、「名目は御守衛でもよいので、10万石の大名から人数をさしだすよう、申達すべし」と親兵設置の命を下しました。これを請け、幕府は、18日、十万石以上の大名に対し、「一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように」と通達したのでした(もちろん、会津藩は、全藩が親兵であるという理由で、特別に藩士を献じることはありませんでした)。なお、4月3日には、親長州の急進派公卿・三条実美が京都御守衛御用掛に任命され、御守衛兵の長となりました。

関連:◆「開国開城」:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久3年:「親兵設置問題
参考>『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一(2001.5.5)

■公武合体派諸侯の退京
【京】文久3年3月18日、薩摩藩国父・島津久光は、一書を朝廷・幕府に差し出して、滞京わずか5日にして、退京し、大坂の藩邸に入りました。

<近衛前関白への書面の概容>
今般、御内命を蒙って上京し、輦下の形勢を詳らかに観察したところ、「皇国之御危急」が迫るのは「顕然」としており、愚魯の身を顧みず、公武の御重職方に存慮を十分献言したが、ちっとも御採用の御模様は無く、「慷慨歎息之外」はない。
就いては「無用之小臣」が長々滞京しては、却って公武の為にならず、「讒言紛々と沸騰」し、終には御目前で「騒乱」を生じかねないと案じている。
殊に攘夷を決定されたからには、国許にて、三面の海岸の寸地も「醜虜」に略奪されぬよう、防戦の用意を厳重に申し付けねば、御国威を貶めることになる。そこで、止むを得ず、明日発足仕る。
急なのでお疑いもあるかもしれないが、右に申上げたこと以外の所存はない。

<久光が家臣に出させた所司代牧野忠恭への書面の概容>
このたびの「攘夷拒絶」の御発令、承知仕った。「夷船」が一艘でも領内に侵入すれば、「応接」はせず「誅戮」を加えるつもりであり、時宜によっては、夷賊征伐のため、軍艦を差し向ける可能性があるので、予め御承知いただきたい
(出所『島津久光公実紀』の上書を口語訳&箇条書きby管理人。『続再夢紀事』・『七年史』では書状は3月17日付になっています)

<ヒロ>
久光は14日に入京すると近衛忠煕前関白邸を訪問し、鷹司輔熙関白・中川宮・一橋慶喜・山内容堂らと会談をしました。その席上、さまざまな建議をしましたが、一座は積極的な返答をしませんでした。いらだった久光は「此議御決定なくば、明日は帰国すべし」と一時は席を立とうとするほどでした(こちら)。また、公武合体派連合策のパートナーだった松平春嶽は9日に辞表を提出して引篭もっており(こちら)、久光と面会することもありませんでした(こちら)。久光は、その後、たびたび裁決を迫りましたが要領を得なかったので、これ以上の滞京は無駄だと見切りをつけ、退京してしまったのです。

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題
参考:『島津久光公実紀』・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』(2001.5.5)
■春嶽辞任
【京】文久3年3月18日、春嶽は、総裁職解任の沙汰が容易に下りないので、解任を待たずに即帰国する決心をして慶喜に伝えさせたところ、慶喜は21日まで待つよう要請しました。

春嶽は、9日と15日に辞表を提出して以来、解任の沙汰を待っていましたが、容易に沙汰が下りそうもないので、この上は解任を待たずに直ちに帰国しようと決意し、その旨を慶喜に伝えるため、家老本多飛騨と岡部豊後を二条城に遣わしました。

本多・
岡部
(目付の杉浦正一郎を介して)一橋殿に辞表を提出してから既に一旬にもなりますが、未だお聞届けの御沙汰がなく甚だ困却しております。この上は、解職の御沙汰を待たず、今日明日中に出発・帰国する決心ですので、この旨、御聞きおきいただきたい。
慶喜 (目付の杉浦正一郎を介して)来る21日までに何とか御沙汰が下りるようにしよう。ついては、是非同日まで帰国を見合わせてほしい。

両名が春嶽に復命すると、後数日のことなので、一時出発を見合わせること、21日になっても万一解任沙汰がない場合は、即日帰国することに決まりました。

参考:『続再夢紀事』一p426-428(2012/4/30)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

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