6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年4月16日(1863年6月2日) 
【京】長州藩、策議十条・攘夷期限布告を朝廷に建言/
世子毛利定広、久坂玄瑞に攘夷のための帰国を命じる
【長】藩主毛利敬親、山口に移る(藩庁移転)
【江】神奈川奉行浅野氏祐、住民を避難させる/
【京】守護職松平容保の壬生浪士上覧試合

■長州藩の攘夷戦争
【京】文久3年4月16日、長州藩は時務策(「策議10条」)及び攘夷期限布告を朝廷に建言しました。

策議10条は以下に要約するとおり
  1. 神道を興起し、異端邪説の消滅の処置をとる、
  2. 文武の諸官、
  3. 朝廷補佐のために貴賎に関らぬ天下の人材を抜擢する、
  4. 大学を建設し、親王から優秀な庶民まで入学させ、才徳を成就させる、
  5. 兵庫港に海軍を創建し、造船・製鉄場も設置する、
  6. 沿海の諸国は自国の兵食(兵力と経費)をもって防衛体制を整え、兵食不足の諸国は海岸のない国から補填を受けるよう命じる、
  7. 親征を行う
  8. 沿海地域に異国船が渡来すれば、国是を言い渡し、直ぐに掃攘を命じる
  9. 堂上から人選して沿海を巡見し、戦闘・防衛の備えを見分うるよう命じる
  10. 掃攘の要務は「進戦の気勢を鼓動仕り候儀」が肝要だと六十余州へ布告することを命じる
定広は、同日、父(藩主)敬親から送致されてきた攘夷期限公布の建白を提出しました。幕府は最初、攘夷期限を4月中旬としましたが(こちら)、4月3日には攘夷期日を23日に延期するよう奏聞していました。攘夷期日が迫る中の建白でした。

また、定広は、この日?久坂玄瑞を召し、速やかに藩地に赴いて京都の情勢を敬親に報せるよう命じました。久坂は、その使命を果たした後は直ちに馬関(下関)に向って攘夷の先鋒となりたいと請願しました。世子が許可したため、久坂は約30名を伴って京都を出立したようです。(15日の可能性もあり?)

【長州】文久3年4月16日(1863.6.2)、藩主毛利敬親は居城を萩から山口に移しました

敬親が山口に入ったのは湯治を名目とするものでしたが、その実は攘夷断行には山口から号令する方が都合がよいという理由でした。以後、山口は長州の政治的・軍事的中心となりました。

同日、京都を脱走していた侍従中山忠光が馬関前田に到着しました。

参考:『修訂防長回天史(三下)』p409.411(2004.6.15)

関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年

■生麦事件賠償問題
【江】文久3年4月16日(1863.6.2)、神奈川奉行浅野氏祐は住民を避難させました。

関連:■開国開城「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題

■残留浪士
【京】文久3年4月16日(1863年6月2日)、壬生浪士全員が会津藩邸を訪問し、守護職松平容保臨席のもと上覧試合を行って、剣術、柔術などの武術を披露したそうです

上覧試合のメイン?である剣術の部は四組が出場。その組み合わせは・・・。

第一試合:藤堂平助(北辰一刀流目録) vs 土方歳三 (天然理新流目録)
第二試合:永倉新八(神道無念流免許) vs 斎藤一 (無外流or一刀流と伝わる)
第三試合:平山五郎(神道無念流免許) vs 佐伯又三郎 (?)

そして、オオトリの第四試合:山南敬介(北辰一刀流免許) vs 沖田総司(天然理新流免許)。勝敗は記されていないそうです。

1999年の総司忌に発表された新史料の土方日記に記されていました。

(2000.6.2)

関連■覚書の「雑感・上覧試合」 関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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