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文久3年4月17日(1864年6月3日) 
【京】三条橋に将軍天誅の張り紙/
壬生浪士近藤勇、「天狗」となり「水会利一存んの意図に」
【長】攘夷戦争:)毛利能登を赤間関海防総奉行に

【京】文久3年4月17日(1864年6月3日)、三条橋に、将軍徳川家茂を「天誅」対象とする張り紙が張られました

「徳川家茂上洛の後、表に勅命遵奉の姿を装えども、事を左右に寄せ、因循に打過ぎ、外夷拒絶の如きも叡聞を欺き奉り、推して帰府を願えるのみならず、男山行幸(=石清水行幸)の時、供奉の命を拝しながら、虚病を構え、且つ一橋中納言(=一橋慶喜)も八幡の神前にて御用筋これある場合を出奔するなど、総て朝廷を蔑如し、其余板倉周防守・(首席老中板倉勝静)・岡部駿河守(大目付岡部長常)・以下の奸吏ども、井伊掃部頭(井伊直弼)・安藤対馬守(安藤信正)の遺志を継ぎ、賄賂を以て奸謀を行えること、言語道断不届の至りなれば、一々誅戮を加うべき筈なれども、大樹未だ若年にして、諸事奸吏の胸中より出づる由の聞こえあれば、格別寛大の沙汰を以て宥免すべし。速やかに奸徒の罪状を糾明して厳科に処すべし。若し遅緩せば、何日を出でずして悉く天誅を加うべし」
(『徳川慶喜公伝』)

将軍を「天誅」の対象とする予告は、これが初めてだったそうです。ま、でも、前半の糾弾部分は、結構、いいとこついてますよね(?)。

■残留浪士
【京】文久3年4月17日(1864年6月3日)、将軍徳川家茂警衛の八王子千人同心の一員として滞京中の井上松五郎(壬生浪士の井上源三郎兄)は、早朝、壬生に赴き、土方歳三、井上、沖田総司、山南敬介、斉藤一といろいろ内談しました。前日に土方と沖田が訪問してきたが留守だったので、書置きが残してあり、それをみての壬生訪問でした。その用件とは近藤勇が「天狗」になってしまった相談だったようです。

井上松五郎の「諸用日記」の4月17日の記録によれば
「十七日・・・(中略)・・・昨日、土方、沖田両人より書面拝見いたし、早朝より壬生村まで罷越(まかりこし)、田中の茶屋、井上、土方、沖田、山南、斎藤のものに逢、色々内談いたし、少々酒宴催、昼九ツ過に旅宿へ立帰り、少々気合悪き故寝臥居り候処へ亦亦壬生より手紙参り候得共、何分気合あしく、罷出不申(もうさず)、幾朝と存じ候得共是亦同様故参り不申、壬生村御用いたし候算段のものに相催候」

また、日記の末尾に以下の書き入れがあるそうです。松五郎が誰かに宛てた書簡の下書き(写し?)だとみられています。
「四月十七日早朝おり壬生迄
八木氏宅へ参り、土方、沖田、井上に逢、万端承知いたし
何より近藤天狗に成候、他浪士門人一同、近藤に□立テ下代方へ□事、水会利一存んの意斗に相成兼候間、何分宜敷御文通願度候」

(出典:「井上松五郎の上洛日記」『新選組隊士遺聞』)

<ヒロ>
●近藤の「天狗」と「水会の利一存んの意斗に相成兼候」
管理人は、最初、この「天狗」は近藤が増長したことだと思っていました。近藤には同志を家臣扱いする傾向があったようで、永倉新八によれば、そのことが甲陽鎮撫隊の敗戦後、新選組瓦解を招くきっかけとなったとされているからです(こちら)。おりしも、土方・沖田が書面を寄越したという前日・・・文久3年4月16日は、会津藩主松平容保による上覧試合のあった日でした(こちら)。この試合で、近藤は芹沢・新見らとおなじ特別扱いで、試合には出場しませんでした。このあたりが、彼に、自分は単なる同志の代表ではなく、上位に立つものだとの誤解を生じさせ、その態度が「天狗」ということになったのではと思ったからです。実は、土方は一週間前の4月10日にも松五郎を訪ねており、このとき、芹沢との志の違いを問題にしています(こちら)。だから、土方らが壬生浪士が芹沢派(&本国寺党)によい印象をもっていなかったことは想像がつくと思います(芹沢との志の違いを問題としている人々の中に近藤が含まれるのかどうかは明言されていませんが・・・)。近藤が増長してしまって反発を買うと、相対的に芹沢の重みが増し、残留浪士における近藤派の存在感が小さくなってしまう・・・それを問題にしたのでは・・・と考えていました。(「近藤に□立テ下代方へ□事」は、「近藤に腹立テ下代方へ申事」くらいでしょうか?下代は不明。下代官としても意味がつながらない気がするし、会津の職制でもまだ見たことがないです・・・)。

ただ、近藤の増長と「水会の利一存んの意斗に相成兼候」の関係が謎でした。もちろん、水会の利は水戸藩と会津藩の利害という意味だと思います。管理人は、芹沢鴨は在京水戸藩士(本国寺党)と密接な関係にあったと考えています。そして、水戸藩からは、残留浪士はなにかあったとき本国寺党と呼応して動くことを期待されていたのではという仮説をたてているのですが・・・。本国寺党の動きについても会津藩についても調査中なので、まだなんともいえませんが・・・。たとえば「水会の利一存んの意斗に相成兼候」が「水戸と会津の利害は、一存の意図には成りかねる(=一存では決めかねる)」という意味だとして、「水戸と会津の利害」とは具体的に何を指すのか、そして、誰の一存なのか・・・(土方らなのか、松五郎なのか、あるいは会津なのか)。この「天狗」と「水会の利」は実は3年前にUPしたときからの宿題なのですが、その後、壬生浪士への興味が薄れていたので、ほとんど進んでいません。 今、「浪士組と水戸藩」を整理中なので、そのへんと同時進行的に今年こそ何かかけるかも・・・。(「浪士組と水戸藩(1)」はこちら

さて、管理人は、最近、松浦玲氏の『新選組』(岩波新書)を読んだのですが、そこでは、この「天狗」を水戸の天狗=水戸藩激派=芹沢派だとし、土方らは、近藤が「天狗」になって残留浪士が「天狗党」(この場合は芹沢派というより本国寺党?)の支配下に置かれることを危惧しているのだろうとの面白い解釈が示されていました。「水会利一存んの意図に相成兼候間」は、水戸藩と会津藩の利害に関することは松五郎が自分の一存では取扱えないので、という意味だろうとされています。

松浦氏はとても尊敬している研究者の方なのですが、でも・・・近藤が「天狗党」・・・う〜ん・・・。「浪士組と水戸藩」と同様に、「守護職の浪士対策と壬生浪士」とか「近藤の政治思想」とかもまとめるつもりなので、ゆっくり考えていきたいと思います。(また何年後かになったりして^^;)

おまけ:
井上松五郎と内談したメンバーとして、土方、沖田、山南が入っていますが、近藤道場に出入りしていたものの、門下生というわけではなかった永倉新八・藤堂平助・原田左之助は除かれています。ムラ社会的な、ウチとソトの区別があったようにもとれますが、近藤が「天狗」になったことは、一緒に上京したメンバー全体にとっての危機ではなく、あくまでも近藤道場一派の危機だったともとれますよね。「天狗」=増長だとすれば、そのにことに永倉・藤堂らが反発していたのかもしれません。「天狗」=「水戸天狗」だとしたら、永倉・藤堂らは、そのことに対して土方らと同様の危機感をもっていなかったかもしれません。永倉・藤堂らは、もともと近藤を同志ではあっても盟主とは思っておらず、残留浪士の中で近藤と芹沢のどちらが主流派トップになるのかというようなことに興味はなかったのかもしれません。このとき、内談メンバーから外されている永倉・藤堂・原田はいずれも、近藤とは袂を分つことになるのですが、もともと近藤に対しては土方・沖田・井上らと温度差があったのだとすれば、偶然だとはいえない気もします。また、近藤の「天狗」を内談するメンバーに合流したばかりの斎藤一が加わっているのも興味深いですよネ。

<参考>『新選組戦場日記』・『新選組隊士遺聞』収録の関連史料、『史談会速記録』(2001.6.3, 2004.6.15,6.16)
関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

■長州藩の攘夷戦争
【長州】文久3年4月17日、長州藩は毛利能登を赤間関(下関)海防総奉行に任命しました。

参考:『修訂防長回天史(三下)』
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年

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