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文久3年4月15日(1863.6.1):
【京】朝廷、長州・備前・水戸・土佐藩に攘夷の策略を諮問
【越】越前藩、外国船摂海侵入時の、挙藩上京・「皇国萬安の国是」確立周旋方針を固め
近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送り、協議させる


京】文久3年4月15日、朝廷は、長州藩・備前藩・水戸藩・土佐藩に攘夷の策略を諮問しました

三条実美・野宮定功・姉小路公知らが下した沙汰は以下の通り。

「方今、攘夷の策、海防の術、御国是見込みの廉々、存分に申上げるべき旨仰せ渡され候間、忌憚を厭わず、腹蔵無く、言上あるべき御沙汰の事」(仮書き下しby管理人)

<ヒロ>
勅旨を渡した公卿の顔ぶれと、渡した相手をみていると、これが本当に孝明天皇の裁可を得たものかどうかはわかりませんネ・・・^^;?

参考:『修訂防長回天史(三下)』p408(2002.6.1)
■越前藩の挙藩上京計画
【越】文久3年4月15日、越前藩は、外国船摂海侵入時の、挙藩上京・「皇国萬安の国是」確立の周旋を大藩と連携で行う方針を固め、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送り協議させました。


春嶽は、3月21日に辞職届捨てのま退京し(こちら)、福井に帰りました。(同月26日には逼塞)。

京都では、攘夷の議論がますます喧しく、23日、幕府も水戸藩主徳川慶篤に外国処置の委任・東帰を達し(こちら)、24日、参内した慶篤に対して、朝廷は将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました(こちら)。慶篤は25日に出京(4月11日に江戸に到着)し、近日中には、鎖港交渉が開始されようとしていました。この状況に鑑み、春嶽は次のように考えました。

幕府が鎖港交渉をしても外国は容易に承諾しないだろう。
元々、鎖港を承知させることはもちろん、鎖港を交渉することになったのも、朝廷の希望に出たものである。
そのことは、各国も察知しているので、今後、直接上京・廷臣に接見して交渉に及ぶなど申し立て、摂海に渡来して、迫ることがないとはいえない。
もし、そうなれば、たちまち皇室の安危に関わり、容易ならぬ次第なので、京都守衛のために一藩を挙げて馳せ登ることはいうまでもなく、ニ、三の大藩と連携して朝廷・幕府に建議し、「皇国萬安の国是」確立に尽力すべきである。

加賀・小浜は隣藩なので、事前に協議させようと考え、加賀には家老本多飛騨ほか、牧野主殿介・三岡八郎を、小浜には松平主馬・酒井十之丞・長谷部甚平を派遣しました。

<ヒロ>
失敗に終わった公武合体派連合策の轍を踏まぬよう、今回は、数藩と同時に挙藩上京することによって、軍事力を背景に、尊攘穏健派の関白・近衛前関白・中川宮らを支え、急進派を抑えこもうというのでしょう。幕府の私政を、中から変えるすることはできませんでしたが、総裁職を辞した今、今度は、外からの圧力で幕府を変えていこうという気持ちもあると思います。(政権返上を唱えて帰国したわりには、まだ、幕府に政権担当者として期待しているようです)

春嶽の帰って行った福井には、前年12月の「始動忘却事件」で越前藩預かりとなっていた横井小楠(越前藩政事顧問)がいました。この計画には当然関わっています・・・。


参考:『続再夢紀事』ニp1-2(2012.5.6)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

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