6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■将軍東帰(2)&生麦賠償問題 【京】文久3年4月18日、幕府は(1)将軍家茂の摂海(大阪湾)巡視のための退京及び(2)鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出ました。 これに対して、朝廷は、(1)慶喜東下による攘夷期日の将軍直筆の言上(2)摂海巡視後の将軍帰京・報告等を求めたので、幕府にとってはいわばやぶへびとなりました。 ●将軍滞京・慶喜東帰奏請の背景 幕府は最初、攘夷期限を4月中旬としましたが(こちら)、その後、具体的期日を4月23日と奏聞していました(4月3日に奏聞したという説あり)。攘夷期日が迫る中、16日には長州藩が攘夷期日を諸藩に布告するよう建白をしています(こちら)。本音は開国論で、もともと攘夷を行う気のない幕府は、とりあえず将軍が京都を去るしかないと決めたようです。( これより先、幕府は、生麦事件償金交渉指揮を名目に将軍東帰を奏請しましたが、許されず、3月18日、朝廷から、(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、を命じられていました(こちら)ので、東帰を願い出るわけにはいきませんでした)。 それで、この日、将軍は後見職一橋慶喜・老中らと参内し、英仏の軍艦が摂海に入港する風聞があるのを口実として、(1)将軍は摂海の防衛体制を整えるために退京して摂海を巡視すること、さらに、(2)慶喜は横浜における鎖港攘夷の実効を挙げるために帰府して、尾張藩主徳川茂徳・水戸藩主徳川慶篤と策を練ること、の許可を求めました。 慶喜が自身の帰府を決めた背景には、実兄である慶篤が将軍目代として帰府したものの、幕閣らの抵抗にあって攘夷が進まないということがありました。このことを知った破約攘夷派の武田耕雲斎(慶喜が実家水戸藩から借り受けていた執政)が、慶喜に帰府して慶篤に助力するよう迫ったそうです。しかし、慶喜はそもそも開国派であり、攘夷をするつもりはないので、帰府の真意は(1)攘夷不履行の場合の責任を将軍に代わって、全権委任の自分が負う、及び(2)懸案を関東に移す、だったと『徳川慶喜公伝』には記さされています。 慶喜の明治47年の回想では、その頃の心境を「いわば予は将軍家の身代りに帰府せしなれば、攘夷の行われざるはいうまでもなきところなり。予は形勢むつかしくなり行かば、力に及ばずとて責を引きて辞職するまでなりと決心したれば、心中にはさしたる苦悶もなかりしなり」(『昔夢会筆記』第一章)と述べています。 ●朝廷の条件 幕府の奏請に対し、朝廷は、孝明天皇臨席の下、将軍に以下の四事の回答を求めました。
●容保の慶喜東帰反対 京都守護職松平容保は慶喜の東帰に反対しました。その理由は(1)後見職である慶喜が東下すると若年の将軍が補佐役なしで残されることになり、難局を処理できない、及び(2)江戸には水戸藩主徳川慶篤(慶喜の実兄)が攘夷のため在府しており、慶喜が東下すれば政令二途にでる怖れがある、ということでした。(会津藩は、3月に将軍東帰問題が起ったときは将軍東帰に反対していました:こちら。とにかく、容保の意見と幕府の方針とは合わないことが多いですね^^;)。 関連:■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」「長州藩の攘夷戦争」 <参考>『徳川慶喜公伝』2・『昔夢会筆記』・『七年史』一(2001.6.4、2004.6.15) |
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