6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■慶喜・春嶽の登用へ 【江】文久2年5月8日、去る4月25日に赦免された一橋慶喜(26歳)が赦免後初めて江戸城に登城し、将軍家茂(17歳)に謁しました。赦免を謝した慶喜に、家茂は熨斗鮑を下賜したそうです。 この日、前越前藩主松平春嶽・前尾張藩主徳川慶勝(会津藩主松平容保実兄)も登城し将軍に赦免の礼を述べました。春嶽は、特に、御用筋あり折々登城して幕政に参与することを命ぜられました。また、老中久世広周から朝命による上京に同行してほしいとの依頼をされました。 ◆慶喜が幕政参与にならなかった背景 『徳川慶喜公伝』では、春嶽・容保が幕政参与を命じられたのに、慶喜が外れたのは老中らが慶喜を忌避したからだと解説しています。慶喜が老中に忌憚された理由には
◆春嶽の幕政参与受諾までの経緯 さて、越前藩中根雪江の記した「再夢紀事」には、春嶽が幕政参与を命じられる前、老中久世広周・板倉勝静が根回しした様子が記録されています。これによれば、春嶽はかなり渋ったようですが、将軍の依頼であるという殺し文句で受諾したようです。春嶽と老中の会話は要約するとこんな感じです。
とまあ、こういう押し問答が続いた後、両老中が改まってこう言い出したそうです。
両老中は平身低頭して「拝み倒」すし、将軍の依頼とあっては辞退もできず、春嶽が<今日のところはひとまずお受けいたします>と言ったところ、二人は大いに喜び、善は急げとばかりにその日のうちに将軍直々沙汰を下す運びになったとのことです。 <ヒロ> 春嶽は実はやる気満々。ちょっともったいぶってみせたように思えるのはわたしだけでしょうか〜(笑)? 関連:■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用と勅使大原重徳東下」■「開国開城」>「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」 <参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』2(2003.6.1) |
|