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文久2年5月7日(1862.6.4)
【江】一橋慶喜らの江戸城登城。松平春嶽、幕政参与に。

■慶喜・春嶽の登用へ
【江】文久2年5月8日、去る4月25日に赦免された一橋慶喜(26歳)が赦免後初めて江戸城に登城し、将軍家茂(17歳)に謁しました。赦免を謝した慶喜に、家茂は熨斗鮑を下賜したそうです。

この日、前越前藩主松平春嶽・前尾張藩主徳川慶勝(会津藩主松平容保実兄)も登城し将軍に赦免の礼を述べました。春嶽は、特に、御用筋あり折々登城して幕政に参与することを命ぜられました。また、老中久世広周から朝命による上京に同行してほしいとの依頼をされました。

◆慶喜が幕政参与にならなかった背景
『徳川慶喜公伝』では、春嶽・容保が幕政参与を命じられたのに、慶喜が外れたのは老中らが慶喜を忌避したからだと解説しています。慶喜が老中に忌憚された理由には
  • 慶喜の亡父徳川斉昭(水戸9代藩主)が幕府の政策に反対して忌まれたこと
  • 慶喜に英明の評判があること
  • 将軍後継問題時に現将軍家茂の競争者となったこと
  • 慶喜が要路に立てば全権が慶喜に帰して将軍も老中も圧倒されるのではないかと猜疑し、そうなれば譜代は慶喜を憎み、外様は慶喜につき、天下争乱の源となると杞憂する者がいたこと
  • 慶喜が要路に立てば井伊直弼の政策を幇助した者を処罰するのではないかと危惧する者もいたこと
  • 慶喜を権謀術策を弄すると見る者もいたこと
が挙げられています。

◆春嶽の幕政参与受諾までの経緯
さて、越前藩中根雪江の記した「再夢紀事」には、春嶽が幕政参与を命じられる前、老中久世広周・板倉勝静が根回しした様子が記録されています。これによれば、春嶽はかなり渋ったようですが、将軍の依頼であるという殺し文句で受諾したようです。春嶽と老中の会話は要約するとこんな感じです。

久世 <定めてご承知だろうと思いますが、当今は、誠に容易ならぬ時勢であり、公武の間に付いて種々無量の困難があります。徳川家の御安危も極まるともいうべき大切至極な時期です。これからは、何分こちらまでご相談下されますように>
春嶽 <不肖の身を頼りにしていただくのは有難いが、閑居中は世上の事柄と離れており、この5年間の時勢は一向に不案内である。元来、学もなく術も無いことで、相談相手になる覚悟は寸分もなく、固くお断りする>
久世 <それはそうでしょうが、何分危急の時節ですので、ご相談願いたく思います。将軍御上洛の評議についてはどうお考えでしょうか>
春嶽 <5年間婦人相手に歌かるたなどをしており、今日初めて出勤した者へそのような大事を相談されてもお答えできようもない。まず、上洛は何から起ったのかもわからず、また上洛してどうするのかはさらにわからない。何を承っても寝耳に水で理解ができず、相談のお役に立たないので、それらの儀は固くお断りする>

とまあ、こういう押し問答が続いた後、両老中が改まってこう言い出したそうです。

久世・板倉 <我々が色々申上げたのは私共が頼んでいるように思われたでしょうが、今度のことは大事な場合であり、将軍様の厚い思し召しがあり、何分にも諸端のご相談をと将軍様がお頼み遊ばされていることですので、御苦労ですが、何卒ご承引いただければ、将軍様もどんなに御安悦されることでしょう。是非是非お受けください>

両老中は平身低頭して「拝み倒」すし、将軍の依頼とあっては辞退もできず、春嶽が<今日のところはひとまずお受けいたします>と言ったところ、二人は大いに喜び、善は急げとばかりにその日のうちに将軍直々沙汰を下す運びになったとのことです。

<ヒロ>
春嶽は実はやる気満々。ちょっともったいぶってみせたように思えるのはわたしだけでしょうか〜(笑)?

関連:■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用と勅使大原重徳東下」■「開国開城」>「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」

<参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』2(2003.6.1)

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