6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■攘夷期限&将軍東帰 【京】文久3年4月20日、幕府は将軍家茂の退京、及び後見職一橋慶喜東帰とひきかえに、朝廷に対して攘夷期限5月10日・列藩への布告を約束しました。 前々18日、幕府は、将軍の大阪湾巡視のための退京及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出ましたが、朝廷は、攘夷期限の延期理由、慶喜東下による攘夷期日の将軍直筆の回答、摂海巡視後の将軍帰京・報告等4つの条件を示していました(こちら)。 幕府の回答は以下の通り (1) 期限延期理由:関東では、生麦事件償金交渉のために英国船が渡来しており、将軍が東下せねば、士気が上らず、人心が離散し、攘夷ができぬ形勢だからだと説明しました。
(2)攘夷期限:5月10日に「相違なく拒絶」・奏聞すること、列藩へも布告すると回答しました。
(3)摂海巡視後の将軍帰京・報告等・:実行すると答えました。 また、慶喜は、東帰後の攘夷交渉のやり方について、次のように回答しました。
<ヒロ> 慶喜の約束した攘夷が「拒絶」すなわち鎖港であることがわかると思います。幕府はもちろん期日までに攘夷を行うつもりはありませんでしたが、攘夷=無二念打払と理解する長州藩は着々と攘夷戦争の準備を進めていました・・・。 ○おさらい 将軍上洛前、朝廷から攘夷期限設定を督促された幕府は、最初、将軍滞京10日帰府後20日以内(こちら)、次に4月中旬と回答してしまい(こちら)、その後、さらに具体的に4月23日と約束していました。しかし、もともと攘夷を行う気はなかったので、期限が迫る18日、とりあえず将軍家茂が京都を去るしかないと決めました。 ただし、これより先、幕府は、生麦事件償金交渉指揮を名目に将軍東帰を奏請したものの、許されず、3月18日、朝廷から、(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、を命じられていました(こちら)ので、東帰を願い出るわけにはいきませんでした。 そこで、今回は、将軍の大阪湾巡視のための退京及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出ました、しかし、これに対して、朝廷は、慶喜東下による攘夷期日の将軍直筆の回答、摂海巡視後の将軍帰京・報告等の4条件をつけたので、幕府にとってはいわばやぶへびとなりました。19日、慶喜は緊急会議を開き、「到底行われざる攘夷なれば、亦行われざるほどの期日に定むべし」と、わずか20日後の5月10日を攘夷期限とすることに決めました。(こちら) 関連:■テーマ:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三・『七年史』一(2001.6.6, 2004.6.16) ■長州藩の攘夷戦争 【京】文久3年4月20日、朝廷は長州藩世子毛利定広に明21日帰国の暇を与えました。 <ヒロ> 既にに藩主毛利敬親は帰国しており、その後、世子定広は兵庫警衛に就いていました。しかし、定広は自国の防衛に力をつくすためとして、3月17日に帰国を請願していました(こちら)。24日、武家伝奏は長州支藩の岩国藩主吉川監物を呼び寄せて兵庫警衛を心得させた上で帰国せよとの沙汰を伝えました(こちら)。26日、長州藩は幕府に兵庫警衛免除を求め、30日、幕府は免除を認めました(代わりに津和野・岡藩等が兵庫警衛担当こちら)。4月7日、参内した定広は、重ねて帰国の勅許を得ましたが、帰国には吉川の上京を待たねばなりませんでした。吉川は17日に岩国を立ちましたが、いまだ京都に到着しないうち、帰国の暇が与えられたのでした。・・・・・・長州藩の息のかかった急進派公卿の意向でしょうか??? 【長州】文久3年4月20日(1863年6月6日)、長州藩は赤間関(下関)海防総奉行毛利能登にに軍令を与えました。 関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年 参考:『修訂防長回天史(三下)』(2004.6.16) |
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