6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年4月26日(1863.6.12)
【京】容保の説得で徳川慶勝将軍輔翼就任。
【熱田】生麦賠償:慶喜、江戸の老中に破約攘夷・開戦覚悟の訓令を発する/
【長】攘夷戦争:久坂、30余名(主に軽輩)とともに山口着。
藩庁に攘夷の先鋒を請う。敵情視察の名目を得て下関へ/


【京】文久3年4月26日、前尾張藩主徳川慶勝が将軍輔翼に就任しました。

慶勝は、同月21日に、将軍後見職一橋慶喜の東下に伴って朝廷より将軍輔翼に任命されていましたが(こちら)、これを辞していました。しかし、朝廷は許さず、輔翼を請けるようにとの沙汰を下しました。異母弟でもある京都守護職松平容保の説得もあり、慶勝はこの日、二条城に登城し、将軍輔翼の任につきました。

<ヒロ>
将軍補翼という幕府の人事を朝廷が行うというのは、幕政介入だと思うのですが、老中・大老などといった役職と違い、もともと補翼というポストがあるわけでもなく、職掌も不明確なので幕府も何も言わなかったのでしょうか。なお、政事総裁職も後見職も退京した今となっては、慶勝が輔翼を引き受けなければ、守護職である容保の責任が大変重くなります。(これは、容保や会津藩がぜひとも避けたいところだったはずです)

参考:『七年史一』(2001.6.12, 2004.6.16)

■生麦賠償問題
【熱田】文久3年4月26日、東下中の一橋慶喜は、江戸の老中に破約攘夷・開戦覚悟の訓令を発しました。

慶喜一行が熱田駅に着いたとき、幕命により西上中の目付堀宮内と会しました。何を話したかは伝わっていないようですが、生麦事件償金&横浜鎖港問題についてだろうというのは推測がつくと思います。江戸では21日に償金支払いを決めていますから、それを報告する使者だったのかもしれません。その後、慶喜は江戸の老中に向けて破約攘夷・開戦覚悟の訓令を発しています。この訓令、面白いのですが、あまりに長文なので、時間がなくて載せられません。興味のある方は、『徳川慶喜公伝2』をどうぞ。

<ヒロ>
慶喜は、実は開国論で、破約攘夷を実行するつもりはないのですが、東下の名目は攘夷の実効を上げることなので、攘夷一徹・やる気まんまんの武田耕雲斎ら水戸藩士を連れていくわ、こんな訓令を発するわで、江戸の方は混乱に陥ります^^;。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題
参考:『七年史一』・『徳川慶喜公伝2』・『昔夢会筆記』(2001.6.12, 2004.6.16)

■長州藩の攘夷戦争
【長】文久3年4月26日、久坂玄瑞ら30余名の長州藩士(主に軽輩)が山口に到着し、藩庁に攘夷の先鋒となることを請願しました。

藩庁では、久坂らを敵情視察の名目で下関に派遣しました。

下関には赤間関総奉行の毛利能登がすでに兵力を配置して臨戦体制に入っていました。しかし、久坂らは能登配下の兵には合流せず、光明寺に宿陣しました。これを「光明寺党」と呼びます。(奇兵隊創立へとつながっていきます)

関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年
参考:『修訂防長回天史』(2004.6.16)

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