3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久4年2月12日(1864年3月19日)
【京】朝廷、松平容保に参議推任の宣下・容保固辞/
【京】守護職更迭:会津藩の唐・蛤門警備を免じ、堺町門に変更
【周防】薩摩藩商船焼き討ち事件(加徳丸事件)(1月説あり)

■会津藩の賞揚(2)
【京】文久4年2月12日(1864.3.19)、朝廷は、幕府の奏精に基づき、京都守護職松平容保の「忠節」、上京後の周旋、8.18政変時の「鎮撫方尽力」と「守護職職掌励勤」を称して、参議推任を宣下しました。(伝奏坊城俊克の命によって、その屋敷に赴いた家老山崎小助に宣旨が与えられました)。

兼々皇国之御為袖忠節、専ら上下名分を正し、猶又上京後彼是周旋し、去年八月十八日一挙に付而は、鎮撫方尽力守護職職掌励勤候段、叡感不斜、従之参議推任被宣下候事
(出典:『京都守護職始末』巻之下p19)

容保は、参議は自分には過当であるとこれを辞退し、この叡賞を藩祖保科正之に賜ってほしいと願い出ました(「今日迄奉上候は、(藩祖保科)正之の意思に御座候、・・・伏而願以所命臣者、転而賜正之被下置度奉願上候」)。

参考:文久4年2月の主な武家の官職
主な(前)藩主
大納言 尾張藩主徳川慶勝(従二位)
中納言 紀伊藩主徳川茂承(従三位)、水戸藩主徳川慶篤(従三位)、一橋慶喜(従三位)
参議 長州藩主毛利敬親(従四位上)
中将 会津藩主松平容保 (正四位下)
<前中将>前越前藩主松平春嶽(正四位下)
少将 薩摩藩国父島津久光(従四位下)
侍従 <前侍従>前宇和島藩主伊達宗城、前土佐藩主山内容堂(両者とも従四位下)

<ヒロ>
同月10日の幕府による5万石加増の沙汰(こちら)に続き、今度は朝廷からの参議推任の宣下(官位昇進)・・・と、容保に対する朝幕の賞揚が短いスパンで続いています。実は、容保への加増及び参議推任は、1月29日に春嶽が慶喜に対して行った会津藩賞揚の3つの提案(こちら)に含まれており、その後の周旋により、実現したものだと思われます。残る一つの提案は、宸賞(天皇による賞賛)の書付でしたが、管理人は、時期的にみても、同月8日に容保に下された密勅(こちら)がそれに相当するのではないかと想像しています。

★春嶽が容保の参議任官を提案した背景に関する管理人の想像はこちら

参考:『七年史』ニp115-116、『京都守護職始末(旧)』巻之下p19(2010/4/7)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の賞揚

■御所九門警備
【京】文久4年2月12日(1864年3月17日)、会津藩が御所唐門・蛤門の警衛を免じられ、代わりに堺門警衛を命じられました。

参考:『七年史』ニp116(2010/4/7)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」■テーマ別文久3「御所九門・六門警備」■豆知識「御所の九門・六門

■薩摩藩船焼き討ち事件(加徳丸事件)
【周防】文久4年2月12日(1864年3月17日)、周防上関駐屯の長州藩義勇隊士が、近くに停泊中の薩摩船加徳丸を襲撃して沈没させ、船主大谷仲之進を殺害しました。

(*日付は『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』。『維新史料綱要』には1月の出来事として記されている)。

前年(文久3年)12月には、長州に御用船の長崎丸が砲撃されて(こちら)、薩摩藩は激昂しており、文久4年2月8日には、長州訊問の内容に長崎丸一件が含まれたばかりでした(こちら

参考:『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』(2010/4/16)
関連:文久4年2月26日【坂】長州義勇隊士に焼き打ちされた薩摩藩船船主大谷仲之進が梟首される。傍らに義勇隊水井精一・山本誠一郎の割腹した遺体(久坂玄瑞らの強要)

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