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文久2年5月24日(1862.6.21)
【江】勅意三事策、江戸に伝わる。
老中、春嶽の将軍上洛主張に同意/
所司代(2)後任に本庄宗秀との議/

■大原勅使東下
【江】文久2年5月24日、京都から、勅使大原重徳の同月22日出立の風聞が届きました。勅使持参の勅意書としてひそかに流伝している三事策1。将軍上洛、2. 雄藩から成る五大老の新設、3.一橋慶喜の後見職・春嶽の大老就任⇒こちら)も伝わりました。

関連:■開国開城:「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下
参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.15)
■将軍上洛問題
【江】文久2年5月24日、老中らは松平春嶽の将軍上洛主張に同意しました

この日、幕政参与の松平春嶽は初めて新任老中の前竜野藩主脇坂安宅【わきさか・やすおり】と会見をし、将軍上洛について議論をしました。脇坂は将軍上洛に同意したため、これまで反対していた板倉勝静【かつきよ】・水野忠精【ただあき】もついに同意しました。

<ヒロ>
将軍上洛は勅使が幕府に要求する三事の第一条にあたります。もしかしたら、老中が勅使出立の日付や三事策の内容を知ったことが、春嶽の主張への同意に影響していたのかもしれないと思います。(両者のタイミングはよくわからないのですが)

関連:■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題」背景はこちら 
参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.15)

■京都所司代人事
【江】文久2年5月24日、所司代酒井忠義【ただあき】(若狭守・小浜藩主)の後任に大坂城代本庄宗秀(松平伯耆守・丹後宮津藩主)を任命する件が評議されましたが、本庄が安政の大獄時の寺社奉行であったことから結論は持ち越されました。

<ヒロ>
酒井忠義は安政の大獄時にも所司代であり、また公武一和のための皇女和宮降嫁にも奔走しました。このため、尊攘激派からは大変憎まれており、京都で勤務を続けることが困難になっていました。不日罷免となることは確実でしたが、京阪が騒がしいので、先ず酒井忠績【ただしげ】(姫路藩主・雅楽頭)を京都守衛のために上京させ、所司代の役目も兼任するよう命じていました。しかし、京都では「薩長の武威」が拡張しており、酒井は妙満寺に滞在したまま、「有れとも無きか如くなりし」という状態でした。

関連:■開国開城:戊午の密勅と安政の大獄 公武合体策と和宮降嫁■テーマ別文久2「京都所司代人事」参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.15)

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