6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年5月12日(1863.6.27)
【京】紀州藩士伊達五郎、生麦事件償金支払に係る朝廷・幕府の難しい状況を越前藩士中根靭負に語る
【横】ロンドン密航の井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)・
山尾庸三・井上勝・遠藤謹助(長州ファイブ)、横浜出港

■生麦事件償金支払
【京】文久3年5月12日、紀州藩士伊達五郎は、越前藩士中根靭負に対し、生麦事件償金支払に係る朝廷・幕府の難しい状況を語りました。

伊達の話の概容は以下の通り
最近、公武の間を周旋奔走しており、先日、姉小路少将の摂海巡見時も依頼に応じて案内いたした(こちら)。その際、大樹公は摂海巡視後、暫くの大坂滞在が内定していると承ったが、償金支払の件で、難しくなり、(5月11日に)再上京された。
(5月8日の)償金支払の一件(こちら)が京都に届いて以来、朝廷では「議論沸騰」し、小拙に内命があって、水野老中のもとへ再三往復することになった。

老中は、在京の者は一切承知せぬことだと申されたので、これほどの重大事をどうして江戸表だけで処分されたのかと詰った。すると、償金のことだけでなく、最近、太田道淳の老中任命すら当地は承知せぬことであると申された。太田殿の老中任命は、尾水両候御委任の廉をもって専決されたのかと伺うと、決して尾水のしたことではないだろうと申される。では、老中か、といって豊前守・河内守殿などが専決されるとは思えないと申すと、小笠原(長行)でもあるまいか、と申された。

このような次第なので、償金の事も本当に承知されぬ事だが、他に向かって公言すべきことではないので、何分穏便に済ませるようにと、泉州殿(=老中板倉勝静)が参内された。しかし、朝議は、尾水の不行届とはいいながら、その源は幕府なので、やはり幕府を責めるべきだとなった。

既に一昨日も姉小路殿方へ小拙が呼ばれ、償金一条はこのままでは済みがたいが、今さらどうしようもないので、尾水の罪をも大樹公が引き受けられて、低頭の謝罪をすれば、結着ともなろうか、その心得をもって然るべく周旋せよと申された。拙者はこう断った。公武の為と思うからこそ、これまで身分を顧みず周旋仕ったが、今回のような重大事は、たとえ、大樹公が謝罪され、朝廷が許されたとしても、諸侯が容易に落ち着かぬだろうゆえ、周旋は御免願いたい、と。しかし、今回はどう転ぶか測り難いので是非周旋せよと強いて仰せなので、熟考するといって引き取った。

このことは、到底、公武双方の為好結果になる見込みがないので、今朝、腹痛を理由に引篭っていたが、先刻、板倉防州殿から召喚されたので岩崎をやったところ、償金は実際に交付したわけではない、とのことだった。聊か安心したところである。

償金支払は5月8日ですが、既に一昨日(=5月10日)には、その噂が京都に届いていたようです。なお、伊達が安心した<償金は実際に交付したわけではない>の内容は、翌13日、板倉老中が中根に話しています(こちら)

なお、中根は、春嶽の命により、鎖港のための慶喜東下に関する幕議を確かめ、また、鎖港交渉に関する春嶽の意見を老中に陳述すために、前々10日に入京していました。翌13日には板倉老中を訪ねていますので、その前に、伊達を訪ね、情報を収集したと思われます。

参考:『続再夢紀事』ニp10-12(2012/5/6)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■長州ファイブの密航
【江】文久3年5月12日、長州藩士の井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船に便乗して横浜を出発しました。

井上馨は佐久間象山の海軍振興論に感化されて海外留学を志し、文久3年の初めに、藩主毛利敬親から内諾を得ていたそうです。同様に、以前、洋学を学ぶために箱館奉行所の諸術調所(おすすめHP『函館市史 通説編第1巻』)に遊学したことのある山尾庸三・井上勝も井上に加わることになりました。で、伊藤は井上が誘ったそうです。遠藤勤助は、不勉強で、ちょっとわかりません。

文久3年の時点でも、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰との大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたことです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでした。

この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロンドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だったようです。彼らのうち、井上と伊藤は元治元年4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが、残りの三人は数年間学業を続けました。

表:長州ファイブのその後(出世してます!)
名前 帰国時期 明治以降の役職
井上馨 元治元年6月 外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵の各大臣など
伊藤博文 元治元年6月 内閣総理大臣、枢密院議長など
遠藤勤助 慶応2年 造幣局長など
井上勝 明治元年11月 鉄道庁長官、帝国鉄道協会会長など
山尾庸三 明治3年 工部郷・宮中顧問官・法制局長官など

ところで、長州藩士で最初に海外渡航したのは彼らではありません。万延元年(1860)に幕府の咸臨丸で米国に渡航したメンバーには長州藩士北條源造がいましたし、翌年の文久元年(1861)、外国奉行・竹内保徳を正使とする幕府の遣欧使節団に杉徳輔が加わっていました。(⇒HP『忘れられた郷土史の先輩たち』)

<ヒロ>
「え〜っ、長州って攘夷・攘夷って幕府をいじめまくって(失礼)、しかも、つい2日前には米国船に砲撃したところなのに(こちら)、どういうこと〜???」って感じですよね(笑)。だいたい、井上・山尾なんかは長州藩の攘夷結社・御楯組の結成メンバーで、文久2年12月には高杉晋作や久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ちしてるんですよ(こちら)。いや〜^^;。

井上に誘われた伊藤も、最初、さすがにどうかと思って久坂にお伺いを立てたら、久坂に「そらマズイに決まってんだろ!」(超意訳)と言われて、いったんはやめたらしいです。帰国後も、「おまんは大和魂を知っちょるのか!」(エセ土佐弁)と中岡慎太郎に殺されそうになったりして、大変だったみたい・・・などなど、ロンドン留学関係については、伊藤じいさまがいろいろ面白い昔話をしているので、いつか余話にUPしますね。(ヒロの「いつか」はどうもあてにならん!というアナタ、マツノ書店さんの『伊藤井上ニ元老直話 維新風雲録』をどうぞ^^)

参考:『修訂防長回天史』・『維新史』・『伊藤井上ニ元老直話 維新風雲録』・『明治維新人名辞典』(2004.6.27)

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