6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■生麦事件償金支払 【京】文久3年5月12日、紀州藩士伊達五郎は、越前藩士中根靭負に対し、生麦事件償金支払に係る朝廷・幕府の難しい状況を語りました。 伊達の話の概容は以下の通り
償金支払は5月8日ですが、既に一昨日(=5月10日)には、その噂が京都に届いていたようです。なお、伊達が安心した<償金は実際に交付したわけではない>の内容は、翌13日、板倉老中が中根に話しています(こちら) なお、中根は、春嶽の命により、鎖港のための慶喜東下に関する幕議を確かめ、また、鎖港交渉に関する春嶽の意見を老中に陳述すために、前々10日に入京していました。翌13日には板倉老中を訪ねていますので、その前に、伊達を訪ね、情報を収集したと思われます。 参考:『続再夢紀事』ニp10-12(2012/5/6) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■長州ファイブの密航 【江】文久3年5月12日、長州藩士の井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船に便乗して横浜を出発しました。 井上馨は佐久間象山の海軍振興論に感化されて海外留学を志し、文久3年の初めに、藩主毛利敬親から内諾を得ていたそうです。同様に、以前、洋学を学ぶために箱館奉行所の諸術調所(おすすめHP『函館市史 通説編第1巻』)に遊学したことのある山尾庸三・井上勝も井上に加わることになりました。で、伊藤は井上が誘ったそうです。遠藤勤助は、不勉強で、ちょっとわかりません。 文久3年の時点でも、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰との大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたことです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでした。 この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロンドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だったようです。彼らのうち、井上と伊藤は元治元年4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが、残りの三人は数年間学業を続けました。 表:長州ファイブのその後(出世してます!)
ところで、長州藩士で最初に海外渡航したのは彼らではありません。万延元年(1860)に幕府の咸臨丸で米国に渡航したメンバーには長州藩士北條源造がいましたし、翌年の文久元年(1861)、外国奉行・竹内保徳を正使とする幕府の遣欧使節団に杉徳輔が加わっていました。(⇒HP『忘れられた郷土史の先輩たち』) <ヒロ> 「え〜っ、長州って攘夷・攘夷って幕府をいじめまくって(失礼)、しかも、つい2日前には米国船に砲撃したところなのに(こちら)、どういうこと〜???」って感じですよね(笑)。だいたい、井上・山尾なんかは長州藩の攘夷結社・御楯組の結成メンバーで、文久2年12月には高杉晋作や久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ちしてるんですよ(こちら)。いや〜^^;。 井上に誘われた伊藤も、最初、さすがにどうかと思って久坂にお伺いを立てたら、久坂に「そらマズイに決まってんだろ!」(超意訳)と言われて、いったんはやめたらしいです。帰国後も、「おまんは大和魂を知っちょるのか!」(エセ土佐弁)と中岡慎太郎に殺されそうになったりして、大変だったみたい・・・などなど、ロンドン留学関係については、伊藤じいさまがいろいろ面白い昔話をしているので、いつか余話にUPしますね。(ヒロの「いつか」はどうもあてにならん!というアナタ、マツノ書店さんの『伊藤井上ニ元老直話 維新風雲録』をどうぞ^^) 参考:『修訂防長回天史』・『維新史』・『伊藤井上ニ元老直話 維新風雲録』・『明治維新人名辞典』(2004.6.27) |
|