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文久2年5月9日(1862.6.6)
【江】田安慶頼の将軍後見職免除。
春嶽、登城して再び国是確立の必要性を説く
−幕府使節、英国との間にロンドン覚書調印

【江】慶喜・春嶽登用
文久2年5月9日、将軍家茂に後見の必要がなくなったとして、田安慶頼の将軍後見職が免除されました。

<ヒロ>
家茂が17歳になり、親政を取れるので、後見の必要がなくなったというのが表向きの理由でしたが、実は、慶喜を後見職にという朝命を避けようとする幕府の防御策だとされています。

ちなみに御三卿田安家は松平春嶽の実家であり、慶頼は春嶽の兄にあたります。実は前日8日に登城した際、春嶽は老中久世広周より、慶頼の罷免に異存はないかと尋ねられています。

春嶽は<これまで後見職として権勢があったのに一時に寂寞となれば人情においてもよくない。後見の免除は当然としても、やはりときどき登城して幕政に参与するようご沙汰ありたい。春嶽が出たので田安が引くということになっては治まりが付かず、栄枯盛衰は不平鬱屈につながりかねない。そのために不測の事態を醸成しかねず、公平な取り扱いをお願いしたい>(「再夢紀事」意訳ヒロ。以下同様)と答えていました。

<参考>『徳川慶喜公伝』2,『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.1)

【江】幕政改革
文久2年5月9日、登城した松平春嶽は大目付駒井朝温(山城守)、大久保一翁(当時忠寛)、浅野氏祐(伊賀守)、続いて久世広周ら老中と会見し、国是確立の必要性を説きました。

春嶽は5月7日に幕政参与に任命されたばかり(こちら)。8日には国是の決定、開国創業の決意を将軍に勧告していました(こちら)。

この日、一翁らは、春嶽に、上京の要請を承諾して天皇に開国を説得するよう促しましたが、春嶽は<開国でも鎖国でも大本の国是が立たなくては説破の種がない。日本国は是でこそ治まるという世間が安堵する見込さえ立てば、いつでも上京をお請けしよう。それができるまでは将軍のご命令でも無理だ>と重ねて上京を断りました。

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続いて、久世から前日の主張を他の老中にも聞かせてほしいと依頼され、春嶽は列座老中を前に「国是相立たずしては徳川家の御威権も滅却に及ぶべし」と再び説きました。ではどうすればよいのかと尋ねられ、春嶽は<今わたしの説を採用しその通りになるのではそれは国是とはいえない。真の国是というのは天皇・将軍を始め天下一統が是ならばと安心する事でなければならない。これまでのように時の執権の心次第で変遷になるようではそれは「我是」というもので、何の益もないだけでなく、かえって害となる事が多い。老中・若年寄・三奉行・大小監察が揃って将軍の御前で講究の上、定めるがよい>と答えました。

◆政治的期待薄だった容保・・・
ところで、幕政参与を命じられるや老中たちの日参する春嶽でしたが、同様に幕政参与を命じられた容保は手持ち無沙汰だったようです。見かねた春嶽はそのことを老中に喚起し、<肥後守の心中はいかがなものか。わたしに相談のあるときは肥後守を加えてはどうか>と提案しました。老中水野忠精は<ごもっともです。私どもは気づかず不調法でした>と答え、以後、容保にも同席を求めることにしたそうです。(老中に悪気はなく、忘れられていただけでした。容保への政治的期待がゼロだったことがよくわかるエピソードだと思います^^;)

<参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.6)

関連:■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「幕政改革問題」「国是決定:開国VS破約攘夷」■「開国開城」「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」


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