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文久2年6月14日(1862.7.10)
【江】越前藩、春嶽の進退を評議。

■勅使大原東下-慶喜と春嶽の登用
【江】文久2年6月14日、松平春嶽は登城を中止し、家老らに進退を評議させましたが、結論はでませんでした。

登城をやめた理由は「中暑(=暑気あたり)」ですが、実際は、勅諚に対する幕閣の反応への不満から進退を考え出したようです。14日付の「再夢紀事」には、春嶽が、天皇の意思を奉じようとしても一人の力では及び難いこと、また、一橋慶喜の後見職登用の件については、老中らは(慶喜に対して)「嫌疑」があって議題にもしようとしないことが、進退を評議した理由に挙げられています。18日付の「再夢紀事」によれば、この頃、家老を始めとする衆議は「容易ならざる御大任候えば、是非共御辞退然るべし」というものだったそうですが、天皇や将軍の意向というものは重く、なかなか意見がまとまらなかったようです。

この後、春嶽は翌15、16日と登城しませんでした。(進退の評議が続けられていたのかも)

慶喜への「嫌疑」とは・・・
幕府は、勅諚の先手をうって、赦免した春嶽を幕政参与に任じていました。ところが、慶喜は、赦免はされたものの、参与に任ぜられませんでした。幕閣から忌避されていたのです。原因は、慶喜が幕府の政策に反対して疎まれていた徳川斉昭の実子だったこと、将軍後継問題で家茂と争ったこと、英明との評判の高かったことなどだったようです。登用すれば将軍家の為にならず(こちら)、「天下紛乱の源」(『徳川慶喜公伝』)となるとみられていたといいます。(こちら) これまでも春嶽は幕閣にしきりに慶喜登用を説いていましたが、老中は慶喜は「権謀智術」家であり、将軍家の為にならないと幕府役人一統が反対していると聞き入れなかったといいます。(こちら)

◆幕府の薩摩藩への疑念
幕府が勅諚を奉じようとしない理由の一つに、今回の勅諚は薩摩藩の私意から出たものとみなしていたことがあります(こちら)。また、薩摩藩の圧力による勅命でこのような人事を容易に実行すれば、「外藩益々増長し、如何なる事をも為し、将軍の廃立を諮るが如きも知るべからず」との見方もあったようです。薩摩藩は安政年間の将軍後継問題では、現将軍の家茂ではなく慶喜を推していた一橋派であり、今回、慶喜の後見職を請ければ、次は朝命をもって慶喜を将軍に擁立しようとするのではないか・・・と疑われたというところでしょうか。

<ヒロ>
◆容保の動きは???
春嶽は、幕府中枢には勅諚遵奉に協力する者が誰もおらず、自分だけが孤立していると思っているようですが、喜んで協力しそうな人物が一人はいますよネ。そう、同じ幕政参与の会津藩主松平容保、叡慮第一のガンコモノです。なのに、どうやら、この件について、春嶽の頼るべき人物としてその視野に入ってない模様・・・。容保は、春嶽と同じ幕政参与とはいっても、これまで(&その後)の様子をみると、幕閣には重くみられていないというか、政治的に期待されていなかったようなので(こちらとか)、春嶽としてもあてにできなかった、というのもあるのかも??まぁ、容保の方から共闘の申し入れもなかったようですが・・・。このへんの会津藩の動きは『会津藩庁記録』にも『七年史』にもなく、よくわからないんです・・・。(『会津藩庁記録』は文久2年12月以降のものだし、『七年史』は文久2年6月7日の勅旨伝達以降、7月28日の守護職の内命まで、会津藩の動きが全く書かれていないのです。なぜ???)

その後、会津藩と越前藩は、7月26日になって、ようやく会盟をしています(こちら)。それまでは、どちらも会盟の必要を感じなかったんかい?と突っ込みたくなります〜。(その会盟だって、どのくらい機能したのか疑問ですし^^;)

追加(7/12):幕議には容保も参加していたはずなので、もしかしたら、容保も慶喜登用には(積極的かどうかはわかりませんが)反対していて、改革への保守・抵抗勢力だとみられていたのかもしれませんね?だとしても慶喜登用への反対自体は、慶喜への嫌疑というより薩摩藩への疑念からではないかと思いますが。この年の後半には、会津藩は薩摩藩にかなり疑念を抱いている様子がうかがえますが(こちら)、もしかすると、それがこの頃から始まっていたのかもしれませんネ。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2005.7.10)
関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「容保VS幕閣・春嶽

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