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文久2年6月18日(1862.7.14)
【江】勅使大原重徳、三度目の登城。老中、慶喜の後見職登用をしぶる。
【江】松平春嶽、幕政参与辞任を決意

■大原勅使東下-慶喜・春嶽の登用
【江】文久3年6月18日、勅使大原重徳は三度目の登城をし、黒書院で老中ら及び幕政参与松平容保と会談しました(松平春嶽は登城せず。後述)。老中は松平春嶽の大老(政事総裁職)任命は承諾しましたが、一橋慶喜の将軍後見職任命には難色を示し、応じようとしませんでした

<ヒロ>
◆幕府の薩摩藩への疑念
もとから慶喜には「嫌疑」をもち、その登用に否定的だった幕閣です(こちら)。それに加えて、6月3日、参議橋本実麗(宰相中将)から和宮の生母の観行院(橋本観子)に届いた書簡に、<今回の勅使は薩摩藩の願いによって派遣されるもので、天皇は幕府を気の毒に思っている。三ヶ条の勅意のうち一ヶ条を受け入れれば薩摩藩は満足するだろうし、薩摩藩さえ満足すれば、(勅意は)別に天皇の意思というわけではない(のでそれでよいだろう)>というような内容が書かれており(こちら)。和宮宛宸翰にも同じような文面があったため(こちら)、今回の勅諚が久光の私意に出たものであることの確証を得たと考え、慶喜の登用についてはますます反対の意を強くしたようです。薩摩藩の圧力による勅命でこのような人事を容易に実行すれば、「外藩益々増長し、如何なる事をも為し、将軍の廃立を諮るが如きも知るべからず」との見方もあったようです。薩摩藩は安政年間の将軍後継問題では、現将軍の家茂ではなく慶喜を推していたので、今回、慶喜の後見職を請ければ、次は朝命をもって慶喜を将軍に擁立しようとするのではないか・・・と疑われたというところでしょうか?(もしかしたら、容保も同じように考えて、慶喜登用には反対していたのでしょうか?このへんの会津藩の動きは『会津藩庁記録』にも『七年史』にもなく、よくわからないのです・・・)
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【江】同日、松平春嶽は登城しませんでした越前藩邸では評議が行われ、春嶽の幕政参与辞任を願うことで意見が一致しました

春嶽は、5月に幕政参与になって以来、幕閣に慶喜登用を頻りに説いていましたが容れられませんでした。6月14日以降には、暑気あたりを理由に登城を停止していました。実際は、勅諚(特に慶喜の後見職登用)に対する幕閣の抵抗に不満を感じてのことだったようで、越前藩では春嶽の進退を評議してしていました(こちら)が、結論は出ませんでした。そんな中、和宮宛宸翰をお見せするので登城するようにと促され、春嶽は、17日に、久々に登城しましたが、この日の幕議において、薩摩藩の私意や慶喜への「嫌疑」を理由に勅諚(特に慶喜の後見職登用の件)を請ける様子がない「曠日の体たらく」に、いよいよ辞意を固めたそうです。もともと、越前藩では家老を始めとする衆議は「容易ならざる御大任」なので是非とも辞退すべきというものでしたので、ようやく、藩の意見がまとまったのでした。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』、『徳川慶喜公伝』2
関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■越前藩日誌文久2 (2002.9.19、2005.7.13)

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